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「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

もう一方の1968年 長くなりそうなのでPart1

加藤周一「言葉と戦車を見すえて」より

今やプラハの大衆報道機関新聞・放送は、共産党政府の政策批判という点で、モスクワのプラウダよりもはるかに自由であったばかりでなく、アメリカ帝国主義の公然たる批判という点で、東京のNHKよりもまたはるかに自由であった。

1967年早春からチェコスロバキアでは言論の自由を求めて知識人の動きが活発になり、政府と対峙した。
共産党指導部内でも改革派と保守派が対立しその抗争の結果、1968年1月改革派のドプチェクが党第一書記に就任し、スヴォボダ大統領、チェルニク首相、シュムルコフスキー国会議長という指導体制が確立された。
これをこころよしとしないソ連は5月初めソ連軍を国境に集中する中で、にドプチェク、チェルニスクをモスクワに呼びつけ会談したが好転せず、6月にソ連軍をチェコスロバキアに入れ「ワルシャワ条約軍としての演習」をはじめたが、演習が終わった6月30日以後も軍隊はそのまま残った。
プラハではその間も自由化促進を要求して二千語宣言が発表され外国軍撤退を求め世論が沸き立った。プラハワルシャワ条約の5か国との協議を拒否し7月末ソ連国境に近い「チェルナ・ナド・チソウ」でソ連の指導者と会う。結果ソ連は軍隊を引き揚げ、8月3日にはブラティスラバで共同声明を発表。軍事的な介入は避けられたかに見えた。
チェコスロバキアの国民は外部からの批判に対しては結束を固め、好意にたいしては熱狂的な共感を持って応えようとしていた。
 ソ連の軍事的な示威によりドプチェクがもはや知識人の代表ではなく国民的な英雄となった。
1968年8月20日夜11時ころ、かねて準備を終えていたソ連(およびワルシャワ会議4か国)軍はソ連ハンガリーポーランド、東独の国境を越え侵入し、21日の早朝には早くもプラハの政府建物を包囲し全国主要都市すべてを占領していた。
侵入した軍隊は、チェコスロバキア政府による軍隊への無抵抗の指示で、武力的な抵抗には会わなかったが、占領と同時にありとあらゆる抗議の言葉に出会った。
 占領軍の兵力は50万に及び、戦車は1500台以上に達した。占領側が被占領側よりも比べ物にならないほど強大だった。

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当時の世界地図。チェコスロバキアソ連は接している。

 

1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。

しかし言葉の面では逆に被占領側が占領側を圧倒した。占領と同時に秘密放送が活動し、送り出す電波は、中欧の空にあふれていた。
街の壁には至るところで見えない手が、大きな文字を書いていた。抗議と呪いの言葉は、行進する青年の叫びとなり、拡声器の呼びかけとなり老若男女の通行人の面罵となり、兵士たちと議論する市民の弾劾の声となって戦車をとりまいた。
ドプチェク・スヴォボダの名は国中に偏在していた。
「われわれは引き返さない」「社会主義の建設は戦車ではできない」「民主主義は君たちの知ったことではない、占領は我々の知ったことではない」「プラハ特派員のモスクワ宛電報に曰く、プラハで今朝反革命分子が二十人生まれた、戦車二十台至急送れ」「レーニンよ墓から立ち上がれ、ブレジネフの頭がおかしくなった」
チェコスロバキア政府の公式の訴えは、
第一、占領は不法な侵略行為である。
第二、「自由化」政策の目的は、「民主主義的社会主義」の建設である。
第三、政府はワルシャワ条約からの離脱を求めず、その枠の中で内政不干渉、相互の主権尊重を求める。
ソ連側の拡声器のいうところは、
第一、軍事介入は「チェコスロバキアの政治的主導者の要請」にもとづくということ
第二、その目的は「反革命分子」に脅かされた社会主義をまもるためであるということにすぎない。
しかし、政治的主導者(複数)の名前は明らかにされず、反革命の定義も明らかではなかった。
もし軍事介入が、人民を救うためであったとすれば、かって赤軍がナチ権力の支配から解放したときのように、乗り込んだ軍隊は人民から歓迎され、協力を得たであろう。
言葉は鋭くても一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、プラハ全体を破壊することもできる。
しかし、プラハ街頭における戦車の存在を正当化するためにはどうしても言葉を必要とする。

大衆の占領軍に対する自発的な抵抗は、非暴力主義の徹底という面でも、合法秘密放送・出版という面でも高度に組織されたものであった。大衆運動における組織された自発性--そういう奇跡的な状況がなぜ68年8月のチェコスロバキアに出現したのであろうか。

南ベトナムの国民解放軍は、抵抗の過程を通じて組織された自発性そのものである。チェコスロバキアの場合、組織のあらゆる水準で国民が結束した。それが可能なのはあらかじめ全国民的な組織が機能していたに違いない。
45年にナチから解放したソ連軍は共産党政権を成立させ、その組織を鼓舞することで結果的に68年の抵抗の組織性を準備した。抵抗の自発性をよびさまし、チェコスロバキアの大衆行動の独特の性格を可能にしたのはソ連軍そのものであった。
かつそのスターリン主義的な政権への反対に駆り立てた特殊な事情は、
第一、チェコスロバキアは東欧社会主義国の中で、社会主義化以前に唯一工業化されていた国である。
第二、1949年から51年にかけての党内批判の一掃、および48年から56年の間に政治犯で有罪とされた者、6万人から7万人を1968年6月以降再検討し半分から四分の三を無罪にしこと等があげられる。
こういう前史があり、組織の活動家がドプチェク支持に積極的になった。彼らは大衆に対してではなく、大衆とともに自由化の将来に希望を託した。そのときはじめてチェコスロバキア共産党は政権を手にしながら同時に人民の前衛となった。

1968年八月末ソ連の戦車がプラハの舗道の上を走り廻っていたときシカゴでは警察が無防備の青年男女を殴りつけ、蹴倒し、半殺しにしていた。かれらは何をしていたのだろうか。要するに権力が用いる言葉、題目と化した言葉に、別の意味を、現実的な中身をあたえようとしていたのである。

68年パリ会議が開かれ、北ベトナムの代表が北爆の全面停止を求め、米国は反対給付の保護なしには北爆をやめることはできない、と対立していた。
交渉の中ではハノイも頑固だ、とモスクワの知識人はいったが、米国は北ベトナムを爆撃し、北ベトナムは米国を爆撃していない。
その知識人は「ここでは新聞の公式的な説明を信用しないという空気があり、新聞でワシントンが黒で、ハノイが白といわれれば実際には黒白はっきりしない、と考える」
1945年の日本では日本軍国主義の検閲制度が廃止され言論の自由が解放された。
政治体制の根本的な変革を公然と論じることもできたし、日本の古代史の事実を初めて公然と語ることもできた。
8月21日、プラハの青年たちが戦車の前に座り込んでいたときに西欧の都市では抗議のデモがソ連の大使館や領事館に向かっていた。国旗を掲げたプラハの青年たちは主権尊重を叫び国境廃止を叫んだ。東欧では「議会内反対党」の要求があり、西欧では議会外反対がある。一方の英雄はチェ・ゲバラであり、他方の英雄はケネディ
青年の出発点は、いずれの側でも権力によって保障された社会秩序vs個人の理想主義的な自発性、警棒=つまるところ戦車vs人間の言葉である。
 パリの自由は数日、プラハの自由は、数か月のうちに終わった。

 

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