紙つぶて 細く永く

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憂われるジャ-ナリズム by加藤周一

ちかごろジャ-ナリズムについて憂いを持った意見が多い。手元にある加藤周一の著作を紐解くと・・

「日本の新聞」
第一、発行部数が途方もなく大きい。いわゆる三大紙のそれぞれが何百万である。発行部数からいえば、これはイギリスの大衆新聞の型に属し、発行部数五十万にみたぬ「タイムス」や「モンド」の型には属さない。
 第二、小発行部数のいわゆる「クォリティ・ペーパー」は、日本にはない。その英仏、またはアメリカにおける役割、つまり詳細な報道と世論形成の役割を、日本では何百万の大発行部数の新聞が兼ねている。もちろん兼業は、内容の上で本職に及ばない。しかし日本の大新聞を、発行部数で同じ水準にある、たとえばイギリスの大衆夕刊紙にくらべれば、その報道機関としての内容は、はるかに充実している
第三、日本の大新聞の性質は、これを要するに西欧の「クォリティ・ペーパー」と大衆紙との中間にあり、両者を打って一丸として二で割ったものである。その社会的な影響力は、当然大きい。しかも新聞社は、新聞の発行とは直接関係のない事業までやっているのだ。職業野球から南極探検、美人「コンテスト」から外国の管弦楽団の招へい、文学賞から国際的な美術展覧会まで。それには広告という意味もあるだろう。しかしそればかりでなく、政府がこと学問と芸術に関するかぎり、決してろくな金を出さぬという日本古来の伝統の故に、他の国では政府のやっている展覧会さえ、新聞社が主催するという面もある。
 第四(大新聞は英語版をだしているが、その編集部は、たいていの場合、日本語版編集部とはちがう。したがって内容もちがう。これは外国人に誤解されやすいところで、英語版の内容がどれほど調子が低くても、日本語の新聞がそれほど低いわけでは決してない。なにも新聞にかぎらず、外国語放送の場合にも、放送局はよほど低い内容でなければ「海外向け」には適当でないと考えているらしい。たしかに日本人の一部には、外国人の知的能力を低く見つもる傾向があるようだ。もしそうでなければ、外国人係りの日本人の知能そのものが、よほど低いとしか考えようがない。とにかく日本の新聞の日本語版と英語版では、程度がまるでちがう。程度がちがうだけでなく、思想もちがう。五月二〇日の安保新条約強行採決の後に、国会解散を要求して議事堂周辺に集まった大衆を、日本語の新聞が「暴徒」とよんでいないときに、またはむしろ、そういう言葉では到底よびえなかったときに、ある英語版は「モッブ」と書いていた。「モッブ」は、日本語で「暴徒」に相当する。バスティーユを襲った大衆を「フランス人民」とよぶか、「暴徒」とよぶかは、立場と思想のちがいである。もちろん国会はバスティーユではないし、一九六〇年五月~六月に東京で革命が問題になったわけでもない。しかし五月二〇日の強行採決に抗議する大衆を、「日本人民」とよぶか、「暴徒」とよぶかは、日本の民主主義に対する立場と思想のちがいだろう。ぼくはここでその立場または判断の是非を問題にしているのではなく、東京で発行される日本語の新聞と英語の新聞との間には、それほど大きなちがいがある、ということを問題にしているのだ。これは偶然のちがいではなくて、傾向のちがいである。
 第五、しかし日本語の「新聞の意見」そのものも、わかりにくいという事情がある。外国の新聞にくらべると、日本の大新聞が寄稿家に許す自由の範囲は広い。社説の立場と全くちがう立場の論文が、同じ日付けの同じ新聞に掲載される。社説と記事、ことに社説と署名のある論文との距離が、大きいのだ。寄稿家の立場からいえば、むろん好都合なことである。しかしそれだけではない。東京の新聞とロンドンやパリの新聞との本質的なちがいを前提とするかぎり、東京では社説の方向に紙面が統一されてはならないという十分な理由があるだろうと思う。前提となる本質的なちがいとは何であろうか。
第六、東京では新聞が公然と特定政党の立場を代表するということがない。超党派性がその原則である。新聞が本来党派性を原則とするパリの場合とは正反対だ。パリでは左翼的な意見は左翼の新聞によって、右翼的な意見は右翼の新聞によって、代表される。その場合には左翼の新聞に右翼的な意見が発表されなければならないという理由がない。ところが東京のように大新聞のすべてが超党派性をたてまえとし、その意味で同質的な立場をとる場合に、しかも紙面が社説の線に統一されるとすれば、それ以外の立場の意見は大衆に達する道を失うことになるだろう。公正で客観的な事実は一つかもしれない。しかし多くの事実のなかからその事実をえらび、その事実を他の多くの事実と関連させて意味づける仕事は、そうする人の立場による。立場は原則として一つではなく、複数である。相異なる複数の立場が立場を本来異にする複数の新聞によって代表されないとすれば、同質的な新聞のおのおのが、それぞれ複数の立場を反映するほかはあるまい。
 第七、新聞の立場が原則として超党派であるということから、実質的には、次のようなことがおこる。
 すなわち対立する二つの陣営LとRの(というのは、たとえば米ソの二大陣営というようなことではなく、国内でたとえば政府・与党と反対党・大衆というような対立する二派について)双方を批判しながらLとRの中点Mを主張する。労使問題で中労委が調停案を出すように、中道を唱えるのである。このやり方によれば、LまたはRがいずれかの方向へ動くとともに、新聞の立場Mもまたその方向へ動くということになる。この動きは、中道主義の定義そのものによって受動的である。しかしそれが紙面にあらわれた瞬間から、その巨大な影響力によって、積極的な効果をもつ。受動的な原因が、積極的な効果をみちびき、その効果がまた受動的な原因を生むという循環が、中道主義の論理そのものに内在するのである。
 こういう中道主義がはっきり破られたのは、五月二〇日以後、六月一〇日ごろまで(このころから米大統領の訪日歓迎を唱えはしめた新聞が多い)である。けんか両成敗・中道主義によれば、「二〇日の強行採決で警官を導入したのは与党がわるい、そのまえにすわりこみをしたのは反対党がわるい、どちらもけしからぬ」ということになるはずである。ところがこの場合にだけは、「警官導入はわるい、その直接の原因であるすわりこみもわるい、すわりこみの原因である岸内閣の安保改定強行方針はもっともわるい。故に内閣は辞職して国会を解散すべし」ということになった。この結論は反対党の言い分と同じであるから、対立するLとRの中点Mではない。この場合にRは極端に(かつ急激にだ)右へ寄り、したがってMもまた大きく右へ寄り、もはや新聞のみとめることのできる限度を越えた(Blog主補足=この場合は例外的に中点Mを外れた)その限度とは一体何だろうか。
 第八、新聞がけんか両成敗方式を捨てたのは、安保強行採決から判断すると議会民主主義の形式が破られたからである。議会民主主義はまもられなければならない、ということだけは、それが対立する両派の中点であろうとなかろうと、そのものとして主張された。
だから岸首相も「新聞は公平でない、客観的でない」といい、吉田元首相も旅先のアメリカで「日本の新聞は真実を伝えない」といったのである。その意味は、新安保をめぐっての国内政治の悪循環が、根本的には岸内閣の責任だということ以外ではない。
 第九、新聞社も私的企業であり、当然日本の企業に固有の雇用関係から影響されている。
 第一〇、新聞もまた日本人の仕事であり、当然日本人に固有の感情的反応を示している。
 この最後の二点についても、西欧の場合とくらべて、独特の点が少なくないと思うが、今は詳しくいうことができない。しかし、とにかく以上の十大特色を心得ておけば、日本の新聞はこの国を誤解する原因になるどころか、かえってこの国を正確に理解するために役立つはずなのである。ゴチックBlog主)

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庶民の世界にはうってつけの「意気地なし」という言葉がある。

 

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」