紙つぶて 細く永く

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

花ぎおん2

酒に酔う

父はかなり酒を嗜んだ。住んだところが酒屋の2軒となりという場所でもあり、飲む酒の量には事欠かなかった。

主に好きだったのは日本酒であった。酔っぱらって帰宅する父を毎晩のように眺めていた。

その影響からか日本酒は好きでない、なにか千鳥足であるく危なっかしいイメージが付きまとうからか・・。

ご他聞にもれず若いころはビールだった。そして少し考えるころに焼酎を知らされた。

学生のときにアルバイトで知り合った友人と数多く安酒場へ通った。

学園紛争の真っ盛りで、友人はその闘士でもあった。

その友人から花ぎおんを教えられた。優しい京都弁で「大学の先生もおおぜいきはりますのえ」と話す女将の言葉が印象的に残っているし、黙して串カツを用意するご主人の姿もあった。

実際大学の先生にも出会ったし、世情についてやり取りした記憶も少しある。

その時から45年近い時が過ぎた。
現在思ったより年をとっていない女将の姿につい年齢をきいた。

私と10歳ほどしか変わらない。ということはその当時は30代の若女将であったのだ。

脳裏に昔のそんな印象は少しも残っていない。まだ若造だったのだろう女将の色気は私には通じなかったらしい。

花ぎおんを知ってから何年か経った頃に友人が尋ねられた。

「Iさんは赤軍派をお知りどすか」
その言葉のあとどのような返事をしたのか覚えていない。

多分友人は黙していたのだと思う。そんな性格だった。

祇園花見小路の一酒場の愛息がよど号ハイジャックグループの一員であった。

子息金太郎君とあったことはないし、子息がいたことも知らなかった。

しかし情けないことにその一件以来回数が少なくなり、ついには花ぎおんに行かなくなった。

なぜだか確とした訳はない。就職から結婚となり子供ができ京都を離れたこともあるが、私としては友人の黙した顔を見つめたくなかった。

しかし一度20年ほど前にその友人と訪れた。もちろん憶えているのだろうが変わらず女将は「おいでやす」と声をかけてくれた。よど号事件の経緯も明らかになっていたし、その時に話はでなかったと思う。

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さらにその時から20年後になった。U先生と行くことになって改めてよど号事件をWikipediaで調べた。

金太郎君は亡くなっていた。
U先生も世評に聞くよど号事件はもちろんご存じだった。

女将は北朝鮮へ遺体引き取りに行った状況などを話してくれた。ご主人は子息と面会することもなく、数十年前に亡くなったそうである。
Wikipediaにこんな記録があった。
「なお、田宮は乗客との別れの際に別れを主題にした詩吟を謡い、乗客の一人が返歌として『北帰行』を歌ったといわれている」


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