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そして未来 おまけの3 今朝の新聞から

先ごろ参議院において成立した安全保障関連法に対しては、国会の内外で賛否両論が激しく対立した。いささか興味深いのは、どちらの陣営も「平和」の名目で賛成し、また反対したということだ。

相互に「平和」という言葉の定義が異なっている。昔からある詭弁「平和を守るために戦争の準備をする」、つまり安保戦争法制は戦争(少なくとも平和時ではなく戦時のための準備)という意味で「平和」を定義している。つまり「安保戦争法案」導入サイドのいう「平和」は詭弁である。

「平和」というものの理解において、国論が二分されているわけである。
 とりわけ国会を取り巻くデモの参加者たちは、「憲法守れ」「戦争法案反対」「平和を守れ」を合言葉にした。安倍首相の進める安保法制は、「平和」への挑戦だというのである。

平和について国論が二分されているのではない、安保(戦争)法制について国論が賛成3割と反対7割に分割されているのである。

しかし、そもそも「平和」とは何なのだろうか。憲法9条を守るという「平和主義者」たちは、戦争とは殺人であり、したがって、平和とは戦争のない(人が殺されない)状態だ、という。そして戦争放棄憲法9条は、日本が他国の戦争に巻きこまれない(人殺しをしない)仕組みである、という。つまり、私も殺人を犯さないから、私も殺されないようにする条文だという。

平和とは戦争のない(人が殺されない)状態ではない。平和とは単に戦争でない状態のことである。一般的な「殺人」についての議論を持ち込むことで混乱をさせようとしている。(日本国憲法は警察を持たない、といっているのではない)

もう少し理念的にいえば、国民主権基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の3原則は相互に深い関連があって、人々が自己の生命や財産に対してもつ基本的権利を守るには平和主義が不可欠であり、それを実現するには国民主権が伴う、という。
確かにこの背後には、「平和とは戦争(人殺し)のない状態」という理解がある。
 だがもしそうであるなら、たちまち疑問がでてくる。
人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しがなくなることはないだろう。
とすれば、戦争もまた同じではないか。だがまたこうもいえる。いわゆる人殺しと戦争は同じではない。いやそもそも人殺しと戦争を同一視する方がおかしいのではないか。
とすれば、戦争をそれなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか。こういう疑問である。

自家撞着「人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しがなくなることはないだろう。とすれば、戦争もまた同じではないか」
「いやそもそも人殺しと戦争を同一視する方がおかしいのではないか。
とすれば、戦争をそれなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか」

「平和(ピース)」とは、そのラテン語の語源からもわかるように、もともと「支配による平和(パックス)」という意味を含んでおり、強国の支配によって作り出された秩序という含意をもっている。つまり、「平和」とは、ある強国によって平定され、そこに秩序が生み出されるという歴史的事実と無関係ではない。
だから、「ローマによる平和(パックス・ロマーナ)」や「アメリカによる平和(パックス・アメリカーナ)」などという。
冷戦後には「パックス・コンソルティス(国際協調による平和)」という概念も唱えられた。かくて、欧米における「平和」とは、多くの場合、ある「覇権」を前提とし、そのもとでの秩序形成や、あるいは、覇権争いの結果としての勢力均衡を意味することになる。だから、冷戦は、冷たい戦争であったと同時に「長い平和」でもあった。
それは、米ソ両国でかろうじて軍事バランスをとったからである。

異論はないが、一部指摘すると「冷戦は、冷たい戦争であったと同時に「長い平和」でもあった」このことは「冷戦は、戦争であったと同時に「長い平和」でもあった」と同義ではない。戦争を悪と考える。

だから「平和」もまた「力」を前提とする。それは、「力による平定」に対する同意が生み出す秩序であり、または、「力」のバランスの維持なのであった。とすれば、戦後日本の「平和主義」が、その意味での「世界標準」から相当にズレていることをわれわれはまずは知らなければならない。

戦後日本の「平和主義」が、その意味での「世界標準」から相当にズレているのか?
ここでいう世界標準は大国にとっての世界標準であり少なくとも、例であげるなら「イタリア」「スイス」「スウェーデン」「メキシコ」等多数の国では、「「平和」とは、ある強国によって平定され、そこに秩序が生み出されるという歴史的事実」だから俺たちも武力をもって世界を平定しなければとは考えていない。
自国を守ろうとする問題と、世界覇権を執ろうと考える論理の違いを意識していない。

もちろん、「世界標準」が正しいという理由もなければ、それに合わせなければならない、という理由もない。
だが、このズレを国是にするとなると、相当な覚悟が必要である。仮に他国からの侵攻があったときに、われわれは基本的には無抵抗主義をとらねばならない。私はこの理想を個人的には称賛し、感情的には深く共鳴するものの、それを国是にするわけにはいかない。

(ここからが多くのスマートな論者に見られる議論の持って行き方の特徴で、いわば一歩ゆずるということか)
安保戦争法制制定前の段階で、仮に他国からの侵攻があったときに、われわれは基本的には無抵抗主義をとらねばならなかったのであろうか。多くの市民はそうは考えない。また現実として、すでに憲法の精神を国是としているのである。
なので解釈改憲による安保戦争法制よりも上記論理により改憲を訴えて、改憲をすることが法的安定性が保たれるというものだ。

フランスの社会人類学者のエマニュエル・トッドが、日本の平和主義についてこんなことを書いている。「私が日ごろから非常に不思議だと感じているのは、日本の侵略を受けた国々だけではなく、日本人自身が自分たちの国を危険な国であると、必要以上に強く認識している点です」(「文芸春秋」10月号)
 長い歴史のなかで日本が危険なことをしたのはほんの短い期間であり、しかもそれはヨーロッパの帝国主義のさなかの出来事であった。

そのほんの短い期間に、多くの悲劇が起こり、東アジアだけでも1000万人以上が犠牲となった。

このトッドの見解に私も同感である。

この学者は恐ろしいことに簡単に同意するもんだ。しかしまず他者の意見をだすことで、自身は直接の矢面に立たずに・・という論理の運びかた。うまい!

日本の憲法平和主義は、自らの武力も戦力も放棄することで、ことさら自らの手足を縛った。

現実的政策に立脚した意見ではなく、実際はそうなっていないという視点が大事

しかし、他国は武力を放棄していないのである。
こうなると、われら日本人だけが、危険極まりない侵略的傾向をもった国民だということになってしまう。トッドのような疑問がでるのは当然であろう。

第三者の意見に頼るからこのように判断を誤る。第二次世界大戦後の世界では、「われら日本人だけ(ではなくドイツ・イタリア)が、危険極まりない侵略的傾向をもった国民」だったと判断された。

「平和への祈り」や「平和への希求」は当然のことで、それが憲法の精神を形作ることには何の問題もない。しかし、憲法9条の平和主義はそうではない。われわれ自身への過度な不信感と、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦(えんせん)感情の産物であるように思える。私には、われわれ日本人は歴史的にみても、法外なほど好戦的で残虐な性癖をもっているとは思われない。われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛りつけられているのではないだろうか。

この結論はなにがいいたいのかわからない。「われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛りつけられている」なかでGDPランキング世界第二位となった経験をもつ。
「法外なほど好戦的で残虐な性癖をもってい」た旧日本指導者(裁かれて戦犯となった指導者を含む)に導かれ戦争を起こした。そのため自己不信かもしれないほど反省をしながら歩む国家でありかつ豊かになろうとした、そしてあのような惨い(太平洋)戦争を経由して戦後平和を希求するという筋道は二度と歩まない、つまり平和を守ると称する戦争は(歴史的に見て多くが偽善であったので)否定するという憲法を選んだのである。

 

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」