紙つぶて 細く永く

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空海 3章

空海の父は佐伯直田公、「空海の風景」によると佐伯とは「サヘグ」であり、さわぐに通ずるという。景行記によると英雄的な王子が征討軍をひきいて東を征し、かれらを多数捕虜にして畿内にもどった。かれらはひとまず伊勢神宮におかれたが昼夜「喧り嘩みて出入り礼なし」ナリトヨミテチュウヤレイナシ、というさわがしさであった。このため播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に移された。それらのひとびとが「佐伯部の祖なり」と景行記はいう。人が異語を使う場合、騒ぐようにきこえる。佐伯部とはさへぎのことらしい。司馬遼太郎はこのことがのちの空海に影響を与えた可能性を指摘する。時間経過からいうと空海は13歳で国学に学んだ。しかし国学に甘んずることなく数え15で都に登りおじの阿刀大足について本格的に勉学を始め18で大学に入学している。大学入学の資格は数えで13から16までであったから空海は年齢的に規定よりも遅く入学したことになる。大学にはいくつかの学科があり、その中の音韻科という外国語科ではなく一般に官吏になる道筋である明経科に入った。
しかし大学で空海も悩んだ。その末「三教指帰」を著し、「書を捨て」(町ではなく)山に出る。このあと7年空海の行方は不明である。
また佐伯直田公は讃岐の豪族であったようで、また母は阿刀氏の女性としかわかっていない。しかしこの阿刀氏一族が当時の学者層に人材を多く送り出したことから、幼少の空海は母系の学者からの影響を強く受けたとみられている。

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梅原猛空海の思想について」を読んでいてどうしても理解できず躓いたところがある。
空海の語ったことも、所詮、そのような単純なことにすぎないように思われる。
 阿字観は密教では、広く行われる観行であるが、空海は、ここで最初の丈字、阿字について語るより最後の文字、吽字について語る。吽字も阿字と同じて、一切の万物を包含する神秘の文字であるけれども、それの方が、真言秘密の教義を、より十分に説明できると考えたからである。
 吽字(hum)は四字からなろと空海はいう。訶(ha)字と阿(a)字と汗(u)字と麼(ma)字とである。吽字は、この四つの字に分析出来るとともに、この四字の合成である。空海は、まず、この四字のそれぞれの字相と字義を示して、そしてその後、その合成の意味を明らかにする。
 訶字は因縁を表す言葉である。訶字をみれば、一切の存在はすぺて因縁より生じないものはないことがわかるという」
ここのところで躓いた。「一切の存在はすぺて因縁より生じないものはないことがわかるという」文章が判読できなかった。結局この文章は「一切の存在はすぺて因縁より生じることがわかるという」と同義なのではないか、それならこの方が文章としてわかりやすいのでは、と考えると読み続けていてもこの疑問が頭をめぐり続けそこから先に進まない。

それにしても、空海西田幾多郎以上の日本最大の思想家であったというU先生のおすすめは「空海と日本思想」篠原資明。
しかし、この世にナマ身で存在した人間が、その死後千二百年を経てもなお半神としてあがめつづけられるつらさ、空海の場合、それが自然以上の自然さを持つというのは、どういう機微によるものだろう。

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