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空海 2章

空海の生まれ育ったところははっきりしないのだという。
空海にとって、叔父にあたる阿刀大足が学問の師匠であった。阿刀大足は空海の父佐伯直田公の弟であったが、空海の母の実家である阿刀家を継いでいた。
阿刀大足は都で桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講でもあた。空海は「貧道、幼にして、表舅(をじ)に就いて頗る藻麗を学ぶ」(文章と詩を習った)と後年の「文鏡秘府論」に書いている。15歳、都にのぼり阿刀大足の指導によって「大学」に入るべく受験勉強を始めた。阿刀大足が学問の師匠であったことから空海畿内生誕説がある。つまり阿刀大足が伊予親王の侍講でもあったのだから空海も都から近いところで育ったのではという推論である。生誕の地が讃岐であり、育ったところが畿内というちがいかもしれない。

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いずれにせよ讃岐にいた空海が都に上った。そしてこれ以後定住という形ではついに故郷へ戻ることはなかった。
 この時代の教育機関として、国学と大学がある。そこを卒業すれば官吏として多少栄達する可能性があった。それぞれに入学する資格が決められており資格は国学は地方官吏の子、大学は五位以上の子孫、および東西の史部の子(東西の史部は大和と河内に住む代々文筆の業務を職とした帰化人の子孫)13歳から16歳までとなっていた。
 説によるとこのころは大学はもとより国学にも入学希望者が少なかったようだ。したがって資格も時代とともに揺らぎ、空海もなぜか彼の才能であれば問題なく16歳までに入学できたであろう大学に規定を超えた18歳で入学している。
 大足は入学にあたり明経科をすすめた。行政について学ぶ科というらしい。この少年の保護者は佐伯今毛人(注)のような官僚としての栄達を期待したのだ。明経科では周易尚書・周礼・儀礼・礼記・毛詩・春秋左氏伝・孝経・論語を学んだ。本文並びに指定されている注釈書を学ぶ。
 そして「この創造力にあふれた少年はぼう大な注釈の暗誦により一切創意がゆるされないという、知的煉獄にあえぎ、沙上で飢えたものが水を求めるようにしてそこから脱出する」(空海の風景)
 空海は「三教指帰」を著す。三教指帰は日本最初の思想小説(空海の風景)
空海がもしこの時代以降に隆盛になる大学文章科に入っていたとすれば、かれの仏教的世界への傾斜は弱いものになっていたかもしれない。弘法大師は生まれていなかったかもしれない。
注 佐伯今毛人(空海の「佐伯」ではなく佐伯本筋=大伴氏の家系の官僚実務の熟達者)

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