紙つぶて 細く永く

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続いて加藤周一

「帰郷の弁Ⅰ」米国がいくさをしている。そのいくさがどこまで拡大するかわからない。しかもその米国の軍事基地が日本にある。という状況のもとで、いくさの拡大にはっきり反対もせず、軍事基地の存在にも反対しない日本の政府は、さすがに悟りの境地に達している。 ひとたび国民の生死を超越すれば、彼らが今生きて街にあふれていると思うのも迷いにすぎず、いくさにまきこまれて一網打尽にほろびるとしても、ほろびると思うのが迷いにすぎない・・・・生死興亡即涅槃。
* 私が米国人に感心するのは、彼らに勇気のあることだ。いくさのためにではなく、平和のために発揮される勇気。集団的にではなく、個人的に発揮される勇気。 四人の水兵が東京で航空母艦から脱出していたころ「ニューヨーク・タイムズ」にはヴィエトナムに従軍した米国の軍人六十余人が、身分と名前をはっきりさせて、戦争反対の一面広告を掲げていた。 日本が中国に大軍を送って、町をこわし、人を殺していたときに帝国陸海軍にはそういう例がなかったようである。たしかに罰則はきびしかった。しかし、もしかりに当時の罰則が今の米国の場合にちかいものであったとしたら、そういう例は日本でもおこったと想像してよいのだろうか。 * 海外放浪の旅からかえるたびに、留守の間東京で流行していた歌を発見する。それは第一に「お富さん」であり、そのふしも文句も和風であった。その次が「バナナボート」。この方はふしも文句も洋風である。この和・洋の対立は、果たしてその後、洋風のふしに和風の文句(「涙がこぼれる」のはわが国振りであって、異国にその例をみることははなはだ少い)の「上を向いてあるこう」によって、止揚された。そこまでがわが流行歌の歴史の弁証法的発展であったろう。  しかし最近の発展は、趣を変えている。一年前にはじめて「女心のうた」を聞いた私は、今また「世界は二人のために」を聞く。「女心のうた」にいわく、「どうせ私をだますなら、死ぬまでだまして欲しかった」 片言隻句よく政治的無関心心理的構造を語ってあますところがない。政府に向かってそういうことは、いつ、どこでも、「政治に興味がない」という人々の心理的背景であった。「あなただけはと信じてた」までも含めて。  そこから「二人のために世界はあるの」の存在論までは遠くない。もはや弁証法的対立ではなくて、論理的必然的な発展であろう。昨日の政治的無関心から、周囲はどうなろうと勝手にしやがれ、という今日の結論まで、流行歌の変遷は、今や、あきらかに誤った結論をみちびきだすことによって、その前提のあやまちを証明しようとしているのであろうか。 * 今日のギリシャは、軍国主義的独裁・反対党の弾圧・言論統制・集会結社の自由の制限・文学的古典の禁止・私的領域の侵害など、多くの点で、30年代のドイツや日本を想出させる。しかし国の大小ということを別にしても、大きなちがいも少なくない。第一に、ナチ政権および日本の軍国主義政府は外国に支持されず、自国民の大多数によって支持されていたが、ギリシャの軍事政権は、自国民に支持されず、外国に支持されている。第二に、ドイツおよび日本の独裁政権は、多かれ少なかれ成功した経済政策を用意していたがギリシャの政権にはそういう用意がない。第三に、かってのドイツおよび日本は、外部に向かって著しく侵略的であったが、今日のギリシャは侵略的ではない。  そういうことは、今日の米国や中国の例もあわせて考えるときに、巷間広く行われている次のような判断が、決して常に正しいのではないということを示していると思う。独裁政権すなわち大衆の支持の不在。議会民主主義の政権すなわち大衆の支持。独裁政権すなわち侵略的外交政策。議会民主主義の政権すなわち非侵略的外交政策。こういう命題を自明の前提とすることによって、冒されたし、また現に冒されつつある不幸は、数えきれないほど多い。毎日新聞・1968年1月12日とⅠ3日

 

REMEMBER3.11