紙つぶて 細く永く

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U先生への便り

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時々夜の静寂の中、前の道を激しい音をたててバイクが通る。暴走族といわれる輩かと思う。家人が「こければいいのに」と呟く。また横断歩道を斜めから入り渡ると、「斜め横断はやめましょう」とのこれ見よがしのマイク放送がある。人がどう渡ろうと安全に渡れると判断すれば「移動は自由」である。
罪にはそれ相応の罰があるのであり、過大でも過小でもいけない。そのことは「罪」を正しく認識することが重要なのであり、「罪」を正しく判断せずに行われる「罰」が正しいことはまれであろう。
以前(文章問題 - 紙つぶて 細く永く 高橋源一郎「論壇時評」)にも下記部分を転用したが、犯した罪=多数の女性をあたかも奴隷のように扱い「皇軍」の「慰安」に供したことは、拭えないし、またその事実に立てば「ニセ吉田証言だった」という1点のみで激しく反発し、ことがなかったかのよう主張する姿勢は罪逃れである。

「先の戦争で、数百万の日本人兵士が戦場へ赴いた。その中には、多くの小説家たちがいた。
生き残り、帰国した彼らは、戦場で見たものを小説に書き残した。そこには、歴史家の「資料」としてではなく、同じ人間として生きる慰安婦たちの鮮やかな姿も混じっている。
 田村泰次郎は、次々と半ば強制的に様々な部隊の兵士の「慰安」の相手をさせられながら過酷な列車の旅を続けてゆく女たちを描いた「蝗(いなご)」や、全裸で兵士たちと共に行軍を強いられる女の姿を刻みつけた「裸女のいる隊列」を書いた。
 強姦(ごうかん)と殺戮(さつりく)が日常である世界を描いた田村と異なり、古山高麗雄(こまお)の作品群には不思議な静けさが漂う。主人公の兵士である「私」は、戦場で自分だけの戒律を作った。
「民間人を殺さない」こと、そして「慰安所に行かない」ことだ。それは「私」にとって「正気」でいるために必要な手段だった。
そんな「私」は、慰安婦たちに深い同情と共感を覚える。なぜなら、「彼女たちは何千回となく、性交をやらされているわけだ。
拉致されて、屈辱的なことをやらされている点では同じだ。など根拠ある証言もある」高橋源一郎「論壇時評」

ジャーナリズムの欠点は日本への近視眼的なものの見方という批判たてばまさに近視眼的に、他国の反正義にたいしてよりも日本軍の従軍慰安婦に力点をおいた。そしてその中に瑕疵があった。ということ以外の何物でもない。そしてここでもその犯した罪=虚偽証言である吉田氏の証言を十分検証しなかった、と罰=記録された状況(上記等)から判断された、旧日本軍のの後継たる日本国に与えられた罰が相応しいか否かという問題である。

このところ気にいっている一文。
-民主制も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステムです。政策決定を個人が下す場合と合議で決めるのでは所要時間が違います。(略)メディアも理解できなかった。そして「決められる政治」とか「ねじれの解消」とか「民間ではありえない」とか「待ったなしだ」とかいう言葉を景気よく流した。そうこうしているうちに、日本人たちは「民主制や立憲主義は、『よくないもの』なのだ」という刷り込みを果たされたわけです。-内田樹


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