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永井潤子「ドイツと私71 感動的なドイツの憲法制定記念式典」

OCNブログ人終了に伴って移動してきました/元ブログhttp://greengrass.blog.ocn.ne.jp/

以下は「未来7月号」掲載の永井潤子さんのドイツからの便りです。

今年五月二三日、ドイツ連邦議会で行なわれたドイツ連邦基

本法制定六五周年の記念式典は、ラマート連邦議会議長の次ぎ

のような挨拶で始まった。

 「六五歳の誕生日というのは特別なことではないように思われ

ますが、ドイツの民主主義にとっては六五年というのは注目す

べき長い期間です。きょう誕生日を迎えるドイツ連邦基本法は、

ワイマール憲法とそれ以前のドイツ帝国憲法をあわせたよりも

長生きしたことになります。前の二つの憲法と違う点は、当初

暫定的な憲法として公布されたため、『憲法』という名前をも

たないことです。しかし、この連邦基本法は、我が国の民主的

秩序の根幹をなす規範としての役割をしっかり果たしており、

いまでは世界の偉大な憲法のひとつと評価され、他国の憲法

模範にすらなっています。こうした連邦基本法をもつことがで

きたことは、ドイツの歴史上非常に幸運なことで、我々はこの

ことをおおいに祝うべきです」。

 記念式典にはガウク大統領やメルケル首相、連邦参議院議長

や連邦憲法裁判所長官らも列席した。ラマート連邦議会議長は、

連邦基本法が国民に受け入れられている理由として、一丸四九

年に旧西ドイツの暫定憲法としてスタートしたこの連邦基本法

が長期的な展望に立っていて、全ドイツだけではなく、ヨーロ

ッパも視野に入れていたこと、その後の政治や社会の発展状況

に適応する順応性をもっていたことなどを挙げている。連邦基

本法の条文はこの六五年のあいだに変更されたり追加条項が付

け加えられたりしたため、当初の二倍の分量にふくれあがった

という。ラマート議長はとくにベルリンの壁崩壊後、旧東ドイ

ツの最初にして最後の民主的に選ばれた入民議会が連邦基本法

二三条に基づく西ドイツヘの編入という形のドイツ統一への道

を選んだことを「歴史的に例を見ない決定だった」と指摘した

が、東西ドイツ分断直後の西ドイツで制定された連邦基本法

前文および二三条には東ドイツのドイツ人との統一を前提にし

た記述が存在したのだった。ラマート議長は、また、ドイツ連

基本法の成功の理由のひとつとして連邦憲法裁判所の役割を

挙げ、民主主義国家での権力の分散、三権分立の重要性を強調

した。事実、連邦政府、あるいは連邦議会が決定したことが、

連邦憲法裁判所に提訴され、その違憲判決によって政治決定が

振り出しに戻り、再論議されることがしばしばある。

 感動的だったのは、イラン系ドイツ入作家、ナヴィッドーケ

ルマニ氏の記念講演だった。ケルマニ氏がまず、公布された当

時の連邦基本法の文章の美しさを指摘したのには意表をつかれ

た。同氏はナチの独裁体制と第二次世界大戦の反省のうえに立

ってつくられた連邦基本法の文章が、法律にしては珍しく、簡

潔で明瞭、美しいドイツ語で書かれていると指摘し、その言葉

のもつ強い力で、新しい現実を作り出していったと見る。講演

の縦糸にはパラドックスという概念が使われている。「人間の

尊厳は不可侵である」で始まる第一条には「これを尊重し、か

つ保護することは、すべての国家権力の義務である」という後

半が続くが、前半と後半はパラドックス以外のなにものでもな

いという。もし人間の尊厳が不可侵であるならば、これを保護

する必要もないはずであると。また「すべての人は、法律の前

に平等である」と書かれているが、ユダヤ人やシンティーロマ

などはまったく平等ではなかったし、「男性と女性は同権であ

る」という第三条を基本法に入れるために当時の数少ない女性

政治家たちが何ヶ月も闘わなければならなかったように、男女

間も同権ではなかった。この六五年は基本法に書かれた民主的

な規範を現実のものとするための闘いであった。

 その一方で、度重なる改正や追加で条文の美しさが失われ、

難解な法律的文章になっていった部分もある。その典型的な例

が第一八条である。これは言葉の問題だけではないが「政治的

に迫害されたものは亡命権を享受する」という簡潔ですばらし

い条項に一九九三年に二七五字もの複雑な文章が追加された。

これはドイツが政治亡命権という基本的な権利を基本法から削

除したことを隠すためと見られても仕方がない。このように批

判すべき点はあるが、この六五年のあいだにドイツ社会が自由

で寛容な社会に変わったことは、移民の子であり、祖国がドイ

ツだけではない自分がドイツの連邦基本法の記念式典で講演す

るという事実からも証明できる。他の国ではこうしたことはな

かなか難しいのではないだろうか。自分のもうひとつの祖国、

イランで、宗教を異にするキリスト教徒やユダヤ人たちがこの

ような機会を与えられることなど考えられない。

 戦後のドイツの歴史を振り返り、このドイツという国が失わ

れた威厳を取リ戻すことができたのは何によってだったかと考

えるとき、思うのはワルシャワのゲットーの犠牲者の碑の前で

ひざまずいた西ドイツのブラント元首相の姿である。彼は個人

的にはヒトラーに抵抗した人物で、ナチの犯罪には少しも責任

がないが、ドイツの首相としてドイツ人の行為を恥じ、みずか

らの誇りを抑えてひざまずき、この行為によって彼の偉大さを

示したのだ。ブラント生誕一〇〇年にあたって繰り返し放映さ

れたこの場面を見るたびに私の目に涙が浮かぶのを抑えること

はできなかった。これもパラドックス以上の象徴的な意味をも

つが、ドイツ連邦共和国はへりくだった態度によって失われた

国の尊厳を取り戻したのだ。これこそ良いドイツ、私の愛する

ドイツである。ブラントはかつて「良いドイツ人はナショナリ

ストではあり得ない」と語ったことがあるが、ゲーテ、シラー

以来のドイツの文学者、カントなどの哲学者は当時から世界市

民であろうとし、ヨーロッパの統合を信じて来たのだった。

 ケルマニ氏は最後に、留学のためイランから来た父親が自由

な国ドイツにとどまり、職を得て、いまではひ孫も含めた家族

とともにドイツで幸せに暮らしていることを明らかにし、「あ

りがとう!・ ドイツ」という言葉で講演を終えた。

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