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「権利の上にねむる者」

2016年3月一部修正
日本国憲法の12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されている。
この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である
という憲法97条の宣言と対応している。
自由獲得の歴史的なプロセスをいわば将来に向かって投射したものといえるのです。

「時効」という制度についていえば、飲み屋のツケは、おかみさんが請求しない限り1年間で消滅することになります。
つまり、いくら権利をもっていても使わないと消滅するということです。
「国民はいまや主権者になった、しかし主権者であることに安住して、
その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警句になっている。
ナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程が指し示している歴史的教訓にほかならない。
「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。
しかし自由を擁護することに比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である」
日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということです。

プディングの味は食べてみなければわからない。
といわれるようにプディングの中に、いわばその属性として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて美味かどうかがそのつど検証されると考えるか。
身分社会の打破・概念実在論唯名論(注1)に転回・あらゆるドグマを実験のふるいにかける、等いろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」近代精神のダイナミックスはまさに「である」論理・「である」価値から「する」論理・「する」価値への相対的な重点の移動により生まれた。
注1:参照

普遍論争における「実在論」と「唯名論」について、小学生でも分かる... - Yahoo!知恵袋

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経済の領域では「である」組織から「する社会」組織へ、「属性」の価値から「機能」の価値への変化が最も早く現れ、また最も深く滲(浸)透します。
資本主義が高度になると所有と経営の機能的な分離が出てきます。
株主であること、資本の所有者であること、と経営をすることは必ずしも一致しなくなる。
厄介な問題は、政治の領域では経済に比べて「する」論理と「する」価値の浸透が遅れがちだということです。
私たちの国の政治がどこまで民主化されているかをはかるのは、制度の建て前が民主主義であるということからではなく、指導者が人民と社会に不断にサービスを提供する用意であり、人民側からは指導者の権力乱用を常に監視し、その業績を絶えずテストする姿勢があるかということになる。
いかに有効に仕事をしているかにかかわりなく、ただコネとか資金の関係で、
または長く支配的地位についていたとか、過去に功績があったとかいうことで、政治的ポストを保っている指導者が、一国の政治家から、小は村のボスまでどんなにうようよしていることか。
一方善人は100パーセント善事を行い、悪人はまた悪事しか行わない、という固定観念も判断を誤らせる。
「今は民主主義の世の中だから」とか「日本は民主主義の国である以上、この秩序を破壊する行動は・・」
といった論理が労働運動や大衆運動に対して投げかけられる際にはこのような発想が底に流れている。
-丸山真男「日本の思想」抜粋-

 

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」