紙つぶて 細く永く

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カテゴリーの発想2

「電気はみんなが使っているのに
どうして(東京電力に勤める)お父さんだけが」悪くいわれるのか、と小学生が訴えていた。
もし君が友だちと花火をするとして、君が「後の火の始末」の係りになったとする。
花火はみんなが楽しむものだ。
君はちゃんと火が消えているか、確かめなくてはならない。
そのとき、(仮に)見たいテレビ番組があったことを思い出して、君は「大丈夫だろう」と、
放り出して帰ってしまう。
ところが完全に消えていない花火があって、それが原因で火事になってしまった。
君が「でも、みんなだって花火を楽しんだじゃないか」と言い返したら、
それは「責任逃れ」と言われても仕方ない。
(それと同じで)東京の人間も無関係でないというのは事実である。
その状況(をみとめること)と事故の責任を追及することは別の問題だ。
-これからどうする-赤川次郎

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「個人と概念1」にも書いたが、「日本人」としてのカテゴリーでは
あの戦争責任は等しく負うべきであると考える。
しかし、それとは違った「戦争にたいしてどのように考えるか」というカテゴリーの場合は全く異なる。
「あの戦争は植民地からの開放をした」
とか、
「(軍隊という猛者集団を至上に讃えたいと)慰安婦は多くの国の軍隊でもそれこそ猛者を慰安していた」
なんて発言をする人間と
戦争を忌避するために「イラクには大量破壊兵器はない」と主張する人間は異なる。
当然電気はみんなが利用しているしそれ無しでは暮らしは成り立たないだろう。
「電気を利用しているのだから電気行政を批判することはおかしい」
と考えることはそれこそおかしい。

戦前戦後の連続ということでいうと、戦後世代の責任がある。
世代は変わっているが、ある事柄が連続していれば同じ感性が続く。
そういう意味から戦後世代の戦争責任という問題になる。
戦後世代の戦争に対する直接の責任はない。
しかし、かつて戦争を生み出したような考え方、あるいは文化
が持続していれば、それの持続か断絶かという点で戦後世代に責任がある。
たとえば大勢順応主義に対して責任がある。
大勢順応主義が最も危険なのは、その大勢が戦争に向かったとき。
その大勢順応主義に批判なくして直接の戦争責任のない人たちが、
戦争に関して責任はないことを主張するのは無理だ。
そうして結局戦争は起こりえる。
-私にとっての20世紀-加藤周一