紙つぶて 細く永く

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少年の視野 母・祖母・親 その1

少年の視野

大正に生まれ昭和平成と生きた母が亡くなった。
96歳誰しもが大往生という齢であった。

思えば「何もない」昭和にともに暮らした古家が浮かんでくる。
京都の土地柄である学生向けのいわゆる下宿屋(注1)であった。
二棟に6畳が7部屋はなれてあるという不思議な間取りであった。
物心ついたころには、下宿生が4人いた。つまり住む空間は6畳3部屋である。
そこに小学生の私たち3人兄弟を含め親子5人、そして故あって母の妹つまり叔母の計6人で暮らしていた。叔母が一部屋を占め残り2部屋。
子供3人が一部屋を占めた都合で、食事を終えた同じ部屋、食卓のすぐ横が父親の寝床であった。
裸電球に覆いをかぶせ、少し明かりを避け、しかし目の上に手を置き眠る父の姿を思いだす。
このような環境でよく眠れたものだ。
もちろんテレビ等はなかったし大きな音を出すものもない家庭であった。
表の棟と裏の棟の間に急造の台所を拵えそこに何故か不釣合いな大きいステンレス流し台があった。
「台所」へは水道も引けずに少し離れたトイレ横の手洗いからホースを繋ぎ流し台横のタンクまで水を引いた。柄杓(注2)をもち鍋に水を入れる母親の後姿も脳裏に浮かぶ。
火力は七輪。炭がいこり(注3)発熱するまで今に比べれば永遠の時間がかかった。
このころにはインスタントラーメンがすでに広まっており、しかしとても3分間では食べられない環境であった。
*注2

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以前にも書いたことであるが、こんな状況でも年中行事でお盆「送り火」の時には、鱧[はも](注4)が食卓に出ていた気がする。

五山保存会 - 紙つぶて 細く永く


母は少し料理が得意だったのであろう「料亭の味」と称する薄味のすまし汁がこれも強い印象である。
私は今もこの味でないと「旨い」といわない。習性とはなかなか抜けないものである。
母方の姉妹の縁で大手電気会社の新製品が我が家にもやってくるときがあった。
電気炊飯器もそのひとつである。もちろんご飯を炊くのであるが、母の発明?かその釜で、「プディング」と称するものを毎夜のように作っていた。ミルクと卵そして砂糖を加え混ぜてスイッチを入れるだけの簡単調理でできた。
(現在の「プリン」である。英語では「pudding」つまり発音からは「プディング」の方が近い)

そして「ローラー式洗濯機」(注5)も開発されて間もない時期に我が家にやってきた。
たしかテレビよりも洗濯機が先にやってきた気がする。三種の神器(注6)はまだ揃っていない。
洗濯機は丸い容器に絞り器が付き中で三角錐型の回転翼が反転しながら回るだけの簡単な構造だった。
それでも音だけは今と同じように「グーッ、グーッ」と吼えていた。
隣に住む義理の姉から教えられた和裁(注7)をしていた母が、チャコ(注8)を
頭にこすりつけていた。頭の油で滑らかにすすむようだ。
鏝(こて:小さなアイロン注9)は最近のものとは違い鋳物でそばに置いた火鉢(注10)で熱しながら着物に印をつけていた。
常に家にいた母の印象が強い。しかし同居する叔母とはしょっちゅう喧嘩をしていた記憶である。
*注1下宿屋 (これが実体に近いかな)http://www.suitcase.jp/archives/2006/07/post_27.html

 

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」