紙つぶて 細く永く

右の「読者になる」ボタンをクリックし読者なっていただくと記事更新時にお知らせが届きます。

}

<近代の克服> 「転向論にかえて」終章

京都学派においての論軸は「哲学的人間学」であった。
人間存在の社会性の次元、民族や国家の次元をそれなりに勘案しようという姿勢から、一面ではマルクス主義の社会科学的な知見を"取込み"つつも、他面では拙速にマルクス主義の"不備"欠落を"批判"する所以となった。
ナショナリズムや国家共同体意識の定在と相在(注a)について説得的な理論体系を提示していなかった。
(注a)定在=現存 相在=運命的、事実的な存在様式
20123_2  
京都学派の哲学的人間学は人間存在を「生の現実」に即し「情意的な面」までを含めて総体的に掴まえようと努力したかもしれない。
しかし、それは古典的な近代哲学の啓蒙主義的理性主義や個体主義、その準位に立った古典的な人間主義に対して、一種のロマン的な揺り戻しでの新装版人間主義を対置したものにすぎないのではないか。
この知的・情意的な構えや有機体主義的な発想が、日本浪漫派流の、"文士的"近代超克論の情念とも相通じたがゆえに、かの「近代超克論統一戦線」が形成され得たのではないか。
論者たちは哲学的人間学に定位することによってマルクス主義における"欠隙"をも埋めようと企て、戦後マルクス主義の或る風潮に先駆けたかもしれない。
哲学的人間学主義は先に指摘した通り、「近代知の地平」に包摂される代物であり、到底「近代の超克」を哲学的に基礎づけ得る態のものではあり得ない。

我が邦における往時の、「近代の超克論」のアチーブメントに関しては、今日の時点から"哲学的に"顧みるとき、誰しもそれが近代知の地平をシステマチックに踰越する所以のものであったとは認め難いであろう。
しかし、東洋的無の改釈的再措定にせよ、西洋対東洋という二元的構案を超えるべき世界史的統一の理念にせよ、はたまた、西洋中心的な一元的・単線的な世界史観に対して複軸的な動態に即して世界史を捉え返そうとした意想、降っては、個人主義全体主義、唯心論対唯物論、複写説対構成説、等々の相補的二元主義となって現れる近代思想の平準そのものを克服しようと図った志向にせよ、往時における「近代の超克」論が対自化した論件とモチーフは今日にあっても依然として生きている。

<近代の克服> 「転向論にかえて」第1章から終章 廣松 渉-<近代の超克>論-より抜粋