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タテカンと京都の景観

議論となった京都タワー

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人工的な建造物だけでなにもない左右対称の景色
八木晃介花園大学名誉教授美術評論家の故・針生一郎和光大学教授が「ビラや落書きも都市の美観を構成する」と説明、パリの公共建造物の壁などには何世代にもわたるビラが貼られ、落書きがなされ、ユトリロ佐伯祐三などの画家はそれらを“都市の美”として認識して作品にも反映させた。
百万遍交差点を中心にした京大周辺のタテカンは、筆者の観点からすれば、“大学の街・学生の街”京都を象徴的に表現する都市景観だと思われ、個人的には常々好ましく眺めてきました。
逆に、京都市が景観上ほとんど問題にしないJR京都駅前の京都タワービル(1964年開業)や、京都市の南北を分断するある種牢獄(ろうごく)的な外見のJR京都駅ビル(97年開業)の方が景観としてはるかにグロテスクであると感じてきました。

 

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美観とは何かという問題は今回の「タテカン問題」の論点から少し外れる。

タテカンはあくまでも表現の自由の問題だ。

しかし、百歩譲り京都市のいう美観からという立場から調べると、どうやら京都市京都タワーを焦点に景観政策を考えているのではないかと思える。

京都の玄関、京都駅前にそびえる京都タワーがある場所は、元京都中央郵便局の跡地で、1958(昭和33)年、京都商工会議所主催による懇談会で跡地の利用が検討された。
その懇談会の結論として、応募もあった民間会社ではなく商工会議所として新会社を設立して、現地に京都の表玄関としてふさわしい文化・観光センターを建設・運営するのが最適であるとされた。
そして2年後には建設準備委員会が設立され、その後株式会社京都産業観光センター(注1)として発足、いよいよビル建設に着手することとなった。
京都タワー設計者は日本武道館など多くの公共建築を手がけた山田守氏の設計によるもの。
タワーの設計コンセプトは、京都市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたというものだった。
当時のビルディングは高さ31mという建築制限があり、センタービルも制限いっぱいの9階建て31mで設計された。
その途中で横浜のマリンタワーのようなタワーが出来ないかということになり、京都大学工学部教授・棚橋諒氏が設計検証し、「ビル屋上にタワーを載せることは技術的に可能」との見解が出ると、屋上工作物という名目で高さ100m・重量800tのタワーの設置が決定した。
塔本体は厚さ12-22mmの特殊鋼の円筒を溶接でつなぎ合わせてできており、骨組みは存在ない。
タワーはこれまでにも、瞬間風速50m/秒を超えるいくつかの台風を経験し、また阪神大震災では震度5強の激しい地震動を受け、大きく揺れたものの、損害は無かった。そうして、東海道新幹線開通とほぼタイミングを同じく1964(昭和39)年12月にオープン。
しかし、建設当初から高層建築には反対運動があり、京都ノートルダム女子大学の講師だったジャン・ピエール・オシコルヌ氏は「古いたたずまいの京都の雰囲気を壊すのは許せない」として、当時の高山義三・京都市長に抗議の書簡を送った。
これを契機として、京都タワー建設反対論が新聞や雑誌をにぎわ した。反対の署名活動や抗議集会なども開かれた。
 しかし、反対論ばかりではなかった。評論家でNHK評議員井上吉次郎は6月20日付「毎日新聞」で、それまでの駅とその周辺の場末風の景観にふれ、次のように論評した。
「むやみに古都に新しく生まれるものに反対しては都市は栄えない。古都といっても、平安人の墓場ではなく、今日から将来にかけて京都人が生きる生活の場なのである」
 7月12日付「京都新聞」には、岡際基督教大 学名誉総長・鴻浅八郎の論評が掲載された。
「京都駅前はもっと近代化されるべきである。要するに、このタワーはやがて内外の観光客や市民に、京都とその周辺の全貌を展望し大観して、真に京都の自然の美しさと、現存する文化財の豊富さを再認識させる近代的観光施設として、是認せられるであろうことを私は予感する」
このようして反対意見を押しのけて工事は進めらた。
結果京都に相応しいかという議論を巻き起こした建物が50年以上もの間、京都駅前に構えている。
(注1 現在は京阪電車による100%子会社京阪ホテルズ&リゾーツ株式会社)

 

都ホテル問題

1988(昭和63)年、京都市は総合設計制度というものを導入し、公開空地等を確保することで、高さ制限や容積率の緩和が可能とした。これを利用して高さ60mの京都ホテル改築が行われ1994年に完成、ついで1997年高さ59.8mの京都駅が完成した。

「京都の景観・街づくり史」

この「京都ホテル」60m改築案についても、京都仏教会を巻き込むなど京都を上げての大論争となった。

しかし、この総合設計制度はその後2007年9月1日の京都市景観計画の変更(高度地区計画書の変更)により廃止された。 京都市:総合設計制度の概要

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その結果「これまで総合設計制度の許可により高度地区の制限が適用除外とされており,改正後の高度地区の制限に適合しない建築物については,高度地区の制限上は既存不適格建築物(注2)となります」
つまり、京都タワーや京都ホテルオークラは既存不適格建築物となった。

京都駅地区については特例として、申請があれば高さ制限について検討する地区となっている。

京都市内は建物の高さは最高31mに制限されている。

したがって、現在京都タワーのような高層建造物は建てられない。
ちなみに既存の京都タワーも大幅な構造改築や、色の変更は京都市市街地景観整備条例によって再審査される。

注2 将来建て替えの時には、今の京都市景観計画により、低くしなくてはならない建築物

今の京都市景観計画では認められない建築物だ。

京都市における景観問題

京都の景観制度 立命館大学 山崎正史教授京都で最初に風致地区が指定されたのは昭和5年(1928年)でした。
昭和5年から戦後に都市計画が市に移管されるまでの間は府で運用していました。 その間は、 ヨーロッパに似た裁量に基づく規制が厳しく行われていました。
平安神宮の横に4階建ての病院が計画されましたが、 平安神宮の中から4階部分が見えてしまうため許可しなかったそうです。
また、 嵐山の方では建物を建てること自体も禁止していたそうです。
しかし、 都市計画が市に移管されてからは、 国が出した風致地区の標準条例を基に京都市も条例をつくったため、 随分規制が緩くなりました。
景観の調和やデザイン的調和を図ることと、 傑作をつくること、 優れた景観や建築物をつくることは別問題で、両立するはずだし両立すべきなのですが、そう考える人は少なかったのです。
私は日本の景観問題を社会的混乱と呼んでいます。
 これまでデザインの問題で景観問題になったことは皆無に近いと思います。
京都タワーや京都駅、 巨大マンションなどの問題は、 建物自体のデザインの問題ではなく、
「この場所に、 この大きさの、 この用途の建物が」ということが問題なのです。 つまり、 それは景観問題ではなく都市計画問題なのだと思います。
しかし、 一般市民はおかしいと感じた時、 都市計画制度を知らないため都市計画問題とは言わずに、 目に見えた環境として捉え景観問題と言うのです。

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 現在の京都の景観は以前の制度の結果だと思います。 巨大工作物規制区域(注3)は京都タワー建設の際、 京都タワーは建築物ではなく工作物だからという理由で建てられてしまったため、 今後あのような工作物ができないようにということで、 京都市が工作物に対して導入した50mの高さ規制の区域です。

町並み景観とまちづくりを京都で考える より

注3 現在2005年の景観法制定を受けて建造物修景地区・沿道景観形成地区となる。

嵐山の美観

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上記図にある嵐山の屋台は京都府の管轄で、京都土木事務所によると1代かぎりの設置許可がでているので今のところ対応策はない。

しかし、このエリアは京都市風致地区第二種地域で建物については

京都市風致地区条例 第七条(48) 中ノ島特別修景地域
中ノ島では、伝統的な数寄屋様式の茶店などの景観を保全するため、建築物は、日本瓦ぶき又は銅板ぶきの数寄屋風外観であり、原則とし て河川に対し軒側(平側)を配置すること。
(49) 渡月橋北東及び南側特別修景地域
渡月橋北東及び南側では、嵐山の緑に囲まれた桂川の河川景観との調和を図るため、建築物は、原則として日本瓦ぶき又は銅板ぶきの和風外観であること。

上記のような規制がかかっている地域でもある。

なぜ放置されているのだろうか・・

違反広告物対策の強化 建築物や工作物に定着している違反屋外広告物への対応については、
京都市として違反状況を知った時点で、所有者等の表示者に対して、適法なものにしていただ くよう行政指導しています
しかしながら、この行政指導に従っていただけない悪質な違反者に対しては、行政処分、公表などのほか、行政代執行や刑事告発も辞さない強い措置を採ることもあります。

苦渋の行政

いわば京都タワーという汚点を抱きながら、京都は景観問題に飲み込まれている。

京都タワーは「京都駅前はもっと近代化されるべきである。要するに、このタワーはやがて内外の観光客や市民に、京都とその周辺の全貌を展望し大観して、近代的観光施設として、是認せられるであろうことを私は予感する」

建物として存在している。

近年の外国からあるいは国内他府県からの観光客も駅前の巨大な建物を背景に写真にとりながら京都市内へと吸い込まれて行く。

京都市民は、巨大工作物としての京都タワーを先頭とする既存不適格建築物と引き換えに何かを失ってしまったのだ。

2000年の京都:加藤周一「京都千年、または二分法の体系について」より抽出現在の京都では、コンクリートの建物で独自性のあるものはほとんど何もない。二流の模造品に過ぎない。
1955年ヨーロッパから帰ってきたとき文化的な拠って立つ立場はどこかと確かめたら、それは東京ではなく京都にしかなかった。
京都の自然、東山や嵯峨野の竹林、庭の苔や石、木立、そして町も残っていた。
ヨーロッパでは木造建築は非常に少ない。戦争の後ヨーロッパで木造建築が残っているのは小さな町だけ。1950年代に、木造建築によるこれだけの大都会が残っていたのは京都だけ、京都の町並みは世界で唯一のものです。
それはただ規模が大きいというだけでなく、形や色が独特です。空間的構造、形、表面の壁とか木の柱の表面の色とテクスチュア、などの全体の美的な洗練これはもう最高です。
ヨーロッパの木造建築でそれに匹敵するものはただの一つもない。
その京都でどういうものを発見したか、金儲けに熱心な人が全力をあげて「京都」をぶち壊ためにあらゆる政治・経済活動を活発に行っている。


京都市はそれを目の前にし、おそまきながら必死になって過去を取り戻そうとしている。

その中でなりふり構わず「京大のタテカン」にも手を染めたのだ。

REMEMBER3.11

タテカンは抗わず漂流する

屋外広告物としての違反の根拠

京都市は「京都市屋外広告物等に関する条例」で市内各地域の屋外広告物の規制に乗り出した。
この規制はもちろん京都市内全般に及ぶ。

そして今回京都大学のタテカンについて違反の根拠は、

京都市屋外広告物等に関する条例第 5 条
何人も,次に掲げる物件に,屋外広告物を表示し,又は掲出物件を設置してはならない。
ただし,法定屋外広告物,管理用屋外広告物及び公益,慣例その他の理由によりやむを得ないものとして別に定める屋外 広告物並びにこれらの掲出物件については,この限りでない。
(1) 文化財保護法第 27 条第 1 項又は第 78 条第 1 項の規定により重要文化財又は重要有形民俗文化財に指定さ れた建築物等
(2) トンネル,橋,植樹帯,中央帯その他の道路と一体となってその効用を全うする建築物等
(3) 道路法第 2 条第 2 項に規定する道路の附属物及びこれに類する建築物等
(4) 景観法第 19 条第 1 項の規定により指定された景観重要建造物及び同法第 28 条第 1 項の規定により指定さ 3 れた景観重要樹木
(5) 京都市市街地景観整備条例第 38 条第 1 項の規定により指定された歴史的意匠建造物
(6) 前各号に掲げるもののほか,電柱,公衆電話所,アーケードの支柱,擁壁,煙突,電波塔,高架水槽,彫 像,観覧車その他の建築物等で,
その物に屋外広告物を表示し,又は掲出物件を設置することにより都市の 景観に悪影響を及ぼすおそれがあるものとして別に定めるもの

上記にある擁壁に設置された広告物に該当するということだった。

当然京都市の景観をまもるという観点から、京都市左京区にある京都大学のタテカンも「ちょっと遠慮しよし」ということで指摘されたと思える。

京大のパロディ魂・折田先生像

京都大学は前身大阪舎密局(せいみきょく)は1869明治2年開校、そして1889明治22年京都に第三高等中学校が移転した、とされる。

ところが京都市という若い組織(1889明治22年の市制施行)には伝統というものの理解が難しいのではないか。

はじめのころ数年間の京都市長は府知事が兼務し、ようやく1898明治31年 初代市長に内貴仁三郎が就任・市役所が開庁された。京都市長の誕生でいえば1898年。京都大学に遅れること9年。

一方1889年に第三高等学校の初代校長に就任したのが折田彦市

折田彦市(1849~1920)薩摩に生まれ、米プリンストン大に留学、キリスト教の洗礼を受けた。帰国後、旧制三高(現・京大)などの校長を30年間務めた。

記念したその像が今は吉田南構内、吉田南1号館地下(下図)に設置されている。だれでも見ることができる。

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訂正 現在折田先生は下記京都大学本部構内百周年時計台記念館に出張中らしい。

 

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正規折田像は当初は現在の京大吉田南構内北門に設置されていた。

ところが、そこはそれ時代とともに権力は批判され、胸像は権威の象徴とみなされたが、しかし調べると折田先生は生徒をさん付けで呼び、一人一人校長室で将来を聞く。「放任でなく見守り」の人格重視の姿勢が、京大流「自由」の源流となる重要な教師ということが分かった。
その結果いつのころからか毎年折田像は様々な衣装を羽織り、受験生に京大流「自由」と学習心そしてパロディのセンスを訴えるようになった。その中で、

ヘルメットレーニンに変装させられ、工事用赤コーンやハトが頭に乗った。

京大 パロディ初代折田像 - Google 検索


 その中で過激さが一線を越えたと目されているのが、94年の下記ヤキソバンだ。

折田先生を讃える会

H30 リセットさん - 折田先生を讃える会

「塗り」を究めた代表作:「ヤキソバン」  
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(写真出典:「折田先生(像)七変化」)

 初期の作品において  塗りの基本は単色であった。
 しかしヤキソバン出現時から一変する。
 この見事なまでのツートンに加え  顔の肌色メーク。
 まさに「塗り」の 最高峰である。
 実はこの作品、「塗り」ばかりでなく 「文言」や「装着」についても一級である。 銅像の台座に残る歴代の様々な落書き跡にも味があるが 「平成六年卒業制作」という白文字には 並々ならぬ作者の決意と覚悟を感じた。 良く見れば「折田先生像」という名札が 「富岡先生像」とも書き換えられている。

おまけ える会長 (@orit_ter) | Twitter

これが俗にいう、ヤキソバン事件である。
三高同窓会はカンカンにおこり、先輩には逆らえない大学当局は97年「いたずらにしても限度がある」「批判精神があれば議論の余地があるが、メッセージが感じられない」「折田先生も怒っている」と像を台座ごと撤去した。

 だが、人間のパロディ創作活動は無限だ。

正規折田像は保護撤去されたが、毎年京大入試日その早朝に、その跡地吉田南構内北門付近に初代校長折田先生を讃えるパロディ像が建立される。朝日新聞デジタル:【京大・折田先生像】我こそ自由の体現者 - 関西

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2012年折田像

大学当局もこのころ、1997年折田先生が出張され、少し首をかしげるパロディのセンスから解き放たれ、ほっとしたのかその後に建立されるパロディ像には寛容だった。

大学内の一組織である旧高等教育研究開発推進機構(現国際高等教育院)から下記のような文書が発表され、無事折田先生像が役目を全うされるようにと宣言。

京都大学 高等教育研究開発推進機構 平成20年度版 折田先生像について平成20年度版 折田先生像について 毎年、入試の時期になりますと、吉田南構内の広場に色々なキャラクターに扮した折田先生像が突如として建立されますが、今年は「てんどんまん」に扮して登場しました。
昨年はポコちゃんでした。
出来映えが素晴らしいので制作者は誰なのか、学生、卒業生、学外者等々諸説紛々ですが、全く分かっていません。
今年も出た!と楽しみにされている方がおられる一方、あのような物を置くことを許していいのかという方もおられます。
機構としましては、吉田南構内の風物詩の一つとして一定の期間状況を見守っています。
ただ、この数年は何者かによって壊されることが続いております。悪戯なのか気に入らないのか動機は定かではありませんが、誰のものであれ創作物を壊すという行為は、最も悪質で下劣で野蛮な行為です。
今年はそのようなことがないように、無事折田先生像が役目を全うされることを望んでいます。

そんなこともあり、毎年パロディ折田先生像は設置されてから概ね1か月は学生諸君にお披露目されている。
高等教育研究開発推進機構は大学組織の中でも最もリベラルという評価が高かった。

そんな中折田先生のひ孫が上記朝日新聞で下記重大な証言をした。

折田彦市のひ孫・折田泰宏弁護士一族、怒っていません。
 「てんどんまん」は生で見ました。折田一族全員、落書きや現状を知っています。
誰も怒っていません。ここまで続けば文化。
大学が微妙な形で許容しているのが、自由な気風の伝統でいい。
折田がつくった文化だと思います。風刺やユーモアを大事にして欲しい。
私は京都・市民・オンブズパースン委員会の共同代表をしています。権威に抵抗するところに関心がある。折田が残した気風とつながっています。

風刺やユーモアの理解は教養ある人の特技だ。

タテカンにつながる石垣カフェ

2004年京都大学から発表された「キャンパスアメニティ計画」で百万遍にある大学裏門(京大は東一条通りに正門がある。下図参照)付近の改修計画が発表された。下記図のように改修予定だった。

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この部分の石垣はそれこそ京大のタテカンメインの場所だった。学生は反発し、2005年1月石垣カフェなるものを石垣の上に作った。

石垣カフェ - Wikipedia

そして闘争7か月、大学側が折れてキャンパスアメニティ計画の百万遍石垣改修を当初の予定から変更し石垣は残り、その後タテカンが設置された。
現在の百万遍交差点は以下の図

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googlemapより加工

この石垣カフェについては主催?した笠木氏による「石垣カフェ-遊戯的実践の空間-」と題する下記学術論文が発表されている。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24219/1/%E7%AC%A0%E6%9C%A8%E4%B8%88.pdf

氏はその中で

笠木丈法人化以降、「経営」効率を上げるために自助努力を要請される国立大学、つまり市場原理に曝された大学にとって、自らの纏うイメージに無関心でいることは難しい。
大学は、 自らの品質管理を怠らず、外部の「顧客」に好印象を与えなければならない。
そして、キャンパスの有様は大学のイメージに直結する。こうして求められるのが、大学の空間を一 望のもとに見渡し、そこに自らの意志を行き渡らせる視点であり、空間はそれが可能となるように変形させられる。
一望監視を可能にする「分割」、それはキャンパスでは、それぞれの場所における機能の一義的な決定という形式で実現されていると考えられる。
管理主体は地図を区画し、機能ごとに塗り分けようと試みる。
「何がなされているのか分からない空間」は消滅することが望まれる。そうすれば、もはや空白は存在しない。
そして、本来定められた機能以外の用法で空間を使用する人々に対しては、どこか別の場所で行うように通告することができる。
このように空間を再編成することで、そこからイレギュラーなものを適切に排除し、空間 の使用状態について容易に掌握することが可能なのである。

と述べている。

石垣カフェの時は大学側も折れた。
だが今回のタテカン騒動は笠木氏のいうように大学当局はいわば渡りに船の京都市からの行政指導であり、その船に乗ってイレギュラーなものを適切に排除できる此岸へ行ってしまったのかもしれない。

そうであれば昨日(2018年5月18日)大学当局によって再度タテカンが葬り去られたように、大学当局は何度でも「何がなされているのか分からない空間」を消滅にかかるのだろう。

タテカンは漂流する。

あほやなあ

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ツイッターより

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時々、数年に一回百万遍の交差点中心で食事会が開かれる。

市民vs権力

1000年以上権力と付き合ってきた京都の地で、磨き上げた反権力としての諧謔趣味は市民の中に伝統として備わっている。権力も当然のようにその諧謔趣味に手をかけてしまった。

今後タテカンは漂流し復活するのか・・

京都大:「立て看板」展 価値ある景観、文化的表現 市立芸大で、きょうから - 毎日新聞

おまけ

京都市屋外広告物等に関する条例に以下の条文もある。

担当部署( 京都市:都市計画局広告景観づくり推進室 )

第六条2項 前項の規定は,次に掲げる屋外広告物及びその掲出物件については適用しない。
1-8略
9 その他公益,慣例その他の理由によりやむを得ないものとして別に定める屋外広告物

REMEMBER3.11

タテカンから見える景色

京都大学のタテカンについて学ぶ

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京都大学の「タテカン」撤去、が話題となり調べてみると、その構造が見えてきた。

昨年11月、京都市から大学に対し、立て看板が京都市条例で設置を制限する「屋外広告物」であること、歩行者に危険であるなどの指摘が近隣住民からあることを理由に、条例などの法令遵守するよう通知することがあった。

この行政指導をきっかけに京大事務当局により下記の京都大学立看板規定が決定され、タテカン整理へと進んだ。

京都大学立看板規程」

・設置は公認団体に限る

・大きさは縦横2m以内

・各団体1枚

・大学当局の指定場所

タテカンには設置団体名、設置責任者氏名や設置期間、連絡先を記載

しかしこの規程制定にあたり、当のタテカン設置者となる学生との協議は全くされなかった。

ここに京都大学当局は学生を対等の話し相手とみていない、というのは私のアジ的表現で、本当は、学生から攻め立てられ罵倒されたくないのでそんな場を設けたくない、というのが大学側事務局の本音かもしれない。(このあたり国会議員団と官僚の関係にも似てくる)

京都大学ではこれまで、学術のみならず文化・芸術活動の拠点としてさまざまな活動がおこなわれそして卒業後も芸術文化活動を続けている。

有名なところでは、劇団けっぺき、劇団愉快犯、劇団そとばこまち、辰巳 琢郎、平野啓一郎森見登美彦綾辻行人宇治原史規森見登美彦万城目学、etc(順不同)

京都大学の現役の先生に聞いたところでは、昔時計台の横には池があり、その周囲を三輪車で競争したというようなこともあったらしい。まあそれほど無邪気でわがままで自由なところが伝統のようだ。

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一方、真面目な方は下宿生の時に台風に見舞われ、激しくゆれる下宿の窓ガラスに恐れをなし、なすことなく大家の間に駆け込み震えていた、という哲学専攻の大学院生もいたと・・。

行政の京都市としては受け取り方が異なるようだが、京都市民は、このようにわがままであって無邪気で、自由で、幼くて、大いに破目をはずし、表現が上手で下手で、孤独で、お金がなくて、通学は自転車で、でも試験は受けるし、不可なら落第するし、論はたつし、何人かに一人は国を背負うほど優秀だし、功成り遂げて後継者を教育するし、ノーベル賞を獲る、そのような限りない可能性を持っている(かもしれない)学生が可愛くて仕方がないのです。
京都にあふれている学生さん可愛がりは市行政のあずかり知らぬところなのかもしれないが、その慈愛は京都のお寺さんにまして、学生に大いに注がれている。

学ぶタテカンシンポジウム

本年2月13日京大学内で行われたシンポジウムでは、

仮に立て看板の設置・管理に問題があるとしても、それへの対応を当事者抜きで決めることが本当の解決につながるのでしょうか。 大学職員の一括管理で事態が良い方向に進むのでしょうか。答えはノーだと思います。さらに、立て看板規制は現場の職員の労働強化でもあります。

という実際にタテカン取り締まり業務にあたる職員への同情意見も発表されている。

https://sites.google.com/view/tatekan-yoshidaryo/documents

国立大学は国立大学法人への移行から毎年の運営費を毎年1%カットしている。
(昨年は「国立大学法人機能強化促進費45億円」なんて得体のしれない予算も導入されたが・・)

そのため各大学で正規職員数が減り、非正規職員が増え、職員ひとりの仕事量も増え、研究・教育するべき教授にもその余波が及んでいるようだ。

「ぶつぶついわないで、ただ働け、というところです。
文句を言わずに研究しとけ、ならまだいいのですが・・」というぼやきも聞こえてくる。



 


今回のこの構図はどこかで聞いたと思った。
自民党文教族イケイケコンビだ。
イケイケコンビ役が京都市で、文科省役は大学事務当局、目的中学役は大学現場(教授を初め学生まで)、前川氏役がタテカンという役回りか。
まずイケイケコンビ現場のタテカンがおかしいとクレームをつけ、大学事務当局にねじ込んだ、本来なら主体的に善処方法を思考しなければならない事務当局だったが、面倒をいやがり、主体大学現場と協議せずに京都大学立看板規程でいわばお茶を濁した。これがまずかった。
現場教授を含め学生はまっとうに反発した。

シンポジウムで総じて学生管理が強まっている。(注1)
その学生を管理している、教職員に対する管理も「トップダウン」のガバナンスといわれ2014年ごろから強まっている。
その後総長選挙においても意向選挙(注2)を廃止という強い動きがあったが、強い反対にあって意向選挙は残り、無事山極壽一総長が選出された。
同年国立大学法人法が「改正」され、それまで「重要な事項を審議する」とされていた教授会の権限は「教育研究に関する事項について審議する」と縮小された。
毎年1%運営費が削減される中で、京都大学ブラック企業化し、仕事量は増えても教員は増えない。
教育学部の事務職員20名の中で、文字通り京大の職員である人は6人程度です。昨年閣議決定された「新しい経済政策のパッケージ」では高校教育無償化について、支援の対象となる大学は、産業界からの人材を理事に2割以上含めた大学だけとなっています。
このような実態の中で、タテカンや吉田寮に関する破壊的な政策に対抗し、市民との関係の中で自由や自治の空間を育てる市民と学問の接点を作らなければならない。

街の中でジェントリフィケーション(注3)が進行し街の風景は無標となり、京大周辺は有標となっている。
大きな流れでは、視覚に入る様々なメッセージを排除することが求められる。
いままでの流れから、京大の場合、これまで形式的だった規制が、行政指導を口実に本格的規制になってきた。
非常に凡庸な言い方をすれば、共謀罪の「実質化」が進んでいる。
キャンパスはタテカンがあるという緊張感、テンションが必要な場所。
今回景観条例を持ち出してしまったことで、教員、学生、そして京大に何らかの形でかかわったあらゆる人間に開かれた運動が始まろうとしている。

注1 「学生管理が強まっている」吉田寮問題も同じ時期に問題となっている。
注2 「意向選挙」 下記画像参照

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文科省HPより



注3 「ジェントリフィケーション」下記URL参照 

貧困層が土地を追われ、よそ者が街を支配する… アメリカで注目を浴びる「ジェントリフィケーション問題」とは - ログミー (こちらのリンクは切れているので以下を参照ください)

京大新聞「ジェントリフィケーション問題」

介入方法を使い分ける行政

京都市は市内にある大学と協働名目で活力ある京都市を目指しているところだ。その中のうたい文句に

大学のまち京都・学生のまち京都の推進:総合企画局総合政策室大学政策担当 大学政策担当の主な仕事「大学のまち交流センターに関する事務,留学生に関する事務,大学の施設整備の支援,山ノ内浄水場跡地活用事業の推進」
  • 学生の確保に向けた「学びの環境」の充実 ―京都で学びたくなる「大学のまち」の仕組みづくり―
  • 大学の国際化に向けた,優秀な留学生等の受入拡大と国際社会に対応した人材の育成 ―留学生等の飛躍的な増加に向けた「広報」「支援」「交流」―
  • パワーあふれる「学生のまち京都」の実現 ―学生が持つエネルギーによる「京都力」の強化―
  • 産学公地域連携の推進による京都地域の活性化 ―産業・地域の活性化,研究成果の活用に向けた連携強化―

パワー無き「学生のまち京都」の実現、を目指しているのではないのか?と突っ込みたくなる。

様変わりした東一条交差点

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実際のタテカン過去からの主なものは以下にある 

https://sites.google.com/view/tatekan-yoshidaryo/tatekan

おもしろくも変人でもない京大

そんな中撤去の翌日5月14日に復活したタテカン達

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火に油を注いだのは京都市、実際にはそそのかした担当部署

( 京都市:都市計画局広告景観づくり推進室 )

REMEMBER3.11

もう一方の1968年 長くなりそうなのでPart2 了

1968年ベトナムソンミ村虐殺

1953年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が歴史的な敗北をした結果、泥沼と化したインドシナでドミノ理論によるインドシナの共産化を懸念したアメリカ合州国はジュネーブ協定に調印せずベトナム南部に傀儡政権を樹立し、南ベトナムに軍事顧問団として介入した。
アメリカの介入に対して、1960年12月、南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称はNLF)(注1)が結成された。

そして1964年8月「トンキン湾事件」が発生し、これを口実にベトナムへの本格的軍事介入が引き起こされた。

このトンキン湾事件はアメリカによる捏造であった。

1971年ニューヨークタイムスがその秘密報告書「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」(「ペンタゴンペーパーズ」と称される)を入手し記事にし暴露した。

その報道を巡って政府との記事差し止め訴訟となり、そのあたりは2017年公開の映画「ペンタゴンペーパ-ズ」となっている。

その後アメリカはトンキン湾事件への報復に、軍事顧問団への襲撃をきっかけとし北ベトナムの首都ハノイ他を爆撃(北爆)を実施した。

注1 アメリカ・南ベトナム側による蔑称として「ベトコン」と称された。

白人帝国主義の圧倒的な軍事力によるアジア侵略。しかも「アジアの一国」である日本政府は、この戦争のいかなる局面においても、ただ一言の反対も表明しなかった。
もしアジア侵略史がここで終わるとすれば、それは日本政府の故にではなく、日本政府にも拘らず、かくも長い間、かくも多くの犠牲を忍んで、史上最大の軍事力に抵抗しつづけた偉大なベトナム人民の意志によるものである。

しかし熱帯ジャングルという地理的な不利益もあり劣勢に追い込まれる。

そして1968年1月30日夜、すなわちベトナムの旧正月(ベトナム語でテト)に一斉に、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線(NLF)による、大攻勢が行われた。このテト攻勢により戦局はおおいにアメリカの劣勢となった。

ベトナムソンミ村のミライ集落において無抵抗の村民504人が無差別射撃に殺害された「ソンミ村虐殺」がおきた。(注2)

注2 ご存知ですか? 3月16日はソンミ村大虐殺事件が起こった日です | 文春オンライン

ベトナム戦争は人民戦争だった。人民戦争は、侵略者側からみて、一般の人民と敵を区別出来ない。その対処法は二つしかない。戦争をやめるか、無差別に人民を殺すか。ソンミの虐殺は偶発事ではなく、人民戦争の必然であった。

同じ理由によって、アルジェリアのフランス軍による拷問、中国大陸の日本軍による婦女子虐殺もまた、軍の必然であった。
以上 加藤周一「言葉と戦車を見すえて」を参考に

 

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それ以来、「学問とは何か」「研究とは何か」「大学とは何か」といった問いに対して考え続けており、「私のなかで紛争は終わってない」と述べている。

第30回大佛次郎賞発表で驚いたのは、選考委員の中で唯一の科学者である養老孟司のケンもホロロな選評「私自身はこの著作をこれ以上には論評する気がない」だった。
受賞作品は「磁力と重力の発見」著者は山本義隆(元東大全共闘議長)

養老孟司は1937年生まれ、山本義隆は1941年生まれである。 東大医学部から全共闘に発展する運動が始まったのは1968年だったから、養老は31歳、山本は4歳年下なので27歳だ。 二人とももはや学生ではなかったが、発火点となった医学部で31歳の養老がどんな位置にいたのかは知らない。 だが、この論評の調子からみて「東大全共闘に対する嫌悪感」が想像できる。被害者意識なのだろうか。注3

注3 養老孟司は研究室の助手をしていた頃、当時盛んだった全共闘運動の被害を受け、「こんな一大事に研究なんかしている場合か」と非難されながら研究室を追い出された。 それ以来、「学問とは何か」「研究とは何か」「大学とは何か」といった問いに対して考え続けており、「私のなかで紛争は終わってない」と述べている。 そのような過去の経緯もあって、かつて東大の全共闘議長であった山本義隆の『重力と磁力の発見』が第30回大佛次郎賞を受賞した際に、同賞の選考委員でありながら、著作への授賞に異存はないとしつつも、自らが全共闘運動から受けた影響(全共闘運動により研究室から暴力的に追い出された)などを理由に「(個人的な)背景を含めた選評は拒否するしかない」という強い調子の文章を発表して話題となった。wikipediaより`
 「過去は変えられない」のだ。
仮に養老のいうことが理解できる立場にたっても、
「賞には値する著作である。大いに称賛する。」
というべき態度が人としての行いであり、著者「山本」の人格を貶すのは別の場所ですればよい。(と私はここで、「養老」を貶しておく)

東京大学においては医学部自治会および青年医師連合(卒業生が所属)が1968年1月下旬より登録医制度反対などを唱え通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。
これに対して大学側は3月11日に「医局員を軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分を発表した。
その中にその場にいなかった1人が含まれており、 このことが学生側の更なる怒りを招くこととなる。
翌3月12日に医学部総合中央館を、3月27日には安田講堂を一時占拠し、3月26日には「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成され、3月28日の卒業式阻止の主体となった。
しかし、この段階では日本共産党(日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会や学内の七者連絡協議会が闘争に対して批判的な立場を取ったため、 全学の自治会には闘争は波及していなかった。
医学部では新学期になってもストライキが継続していたが、事態は膠着し、6月15日に医学部の「全学闘争委員会」が安田講堂を再度占拠した。
大学当局の大河内一男東大総長は2日後に機動隊を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。
その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。
以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、 東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキや、主要な建物多数の封鎖が行われた。 11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

 

敬称略

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REMEMBER3.11

もう一方の1968年 長くなりそうなのでPart1

加藤周一「言葉と戦車を見すえて」より

今やプラハの大衆報道機関新聞・放送は、共産党政府の政策批判という点で、モスクワのプラウダよりもはるかに自由であったばかりでなく、アメリカ帝国主義の公然たる批判という点で、東京のNHKよりもまたはるかに自由であった。

1967年早春からチェコスロバキアでは言論の自由を求めて知識人の動きが活発になり、政府と対峙した。
共産党指導部内でも改革派と保守派が対立しその抗争の結果、1968年1月改革派のドプチェクが党第一書記に就任し、スヴォボダ大統領、チェルニク首相、シュムルコフスキー国会議長という指導体制が確立された。
これをこころよしとしないソ連は5月初めソ連軍を国境に集中する中で、にドプチェク、チェルニスクをモスクワに呼びつけ会談したが好転せず、6月にソ連軍をチェコスロバキアに入れ「ワルシャワ条約軍としての演習」をはじめたが、演習が終わった6月30日以後も軍隊はそのまま残った。
プラハではその間も自由化促進を要求して二千語宣言が発表され外国軍撤退を求め世論が沸き立った。プラハワルシャワ条約の5か国との協議を拒否し7月末ソ連国境に近い「チェルナ・ナド・チソウ」でソ連の指導者と会う。結果ソ連は軍隊を引き揚げ、8月3日にはブラティスラバで共同声明を発表。軍事的な介入は避けられたかに見えた。
チェコスロバキアの国民は外部からの批判に対しては結束を固め、好意にたいしては熱狂的な共感を持って応えようとしていた。
 ソ連の軍事的な示威によりドプチェクがもはや知識人の代表ではなく国民的な英雄となった。
1968年8月20日夜11時ころ、かねて準備を終えていたソ連(およびワルシャワ会議4か国)軍はソ連ハンガリーポーランド、東独の国境を越え侵入し、21日の早朝には早くもプラハの政府建物を包囲し全国主要都市すべてを占領していた。
侵入した軍隊は、チェコスロバキア政府による軍隊への無抵抗の指示で、武力的な抵抗には会わなかったが、占領と同時にありとあらゆる抗議の言葉に出会った。
 占領軍の兵力は50万に及び、戦車は1500台以上に達した。占領側が被占領側よりも比べ物にならないほど強大だった。

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当時の世界地図。チェコスロバキアソ連は接している。

 

1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。

しかし言葉の面では逆に被占領側が占領側を圧倒した。占領と同時に秘密放送が活動し、送り出す電波は、中欧の空にあふれていた。
街の壁には至るところで見えない手が、大きな文字を書いていた。抗議と呪いの言葉は、行進する青年の叫びとなり、拡声器の呼びかけとなり老若男女の通行人の面罵となり、兵士たちと議論する市民の弾劾の声となって戦車をとりまいた。
ドプチェク・スヴォボダの名は国中に偏在していた。
「われわれは引き返さない」「社会主義の建設は戦車ではできない」「民主主義は君たちの知ったことではない、占領は我々の知ったことではない」「プラハ特派員のモスクワ宛電報に曰く、プラハで今朝反革命分子が二十人生まれた、戦車二十台至急送れ」「レーニンよ墓から立ち上がれ、ブレジネフの頭がおかしくなった」
チェコスロバキア政府の公式の訴えは、
第一、占領は不法な侵略行為である。
第二、「自由化」政策の目的は、「民主主義的社会主義」の建設である。
第三、政府はワルシャワ条約からの離脱を求めず、その枠の中で内政不干渉、相互の主権尊重を求める。
ソ連側の拡声器のいうところは、
第一、軍事介入は「チェコスロバキアの政治的主導者の要請」にもとづくということ
第二、その目的は「反革命分子」に脅かされた社会主義をまもるためであるということにすぎない。
しかし、政治的主導者(複数)の名前は明らかにされず、反革命の定義も明らかではなかった。
もし軍事介入が、人民を救うためであったとすれば、かって赤軍がナチ権力の支配から解放したときのように、乗り込んだ軍隊は人民から歓迎され、協力を得たであろう。
言葉は鋭くても一台の戦車さえ破壊することができない。戦車は、プラハ全体を破壊することもできる。
しかし、プラハ街頭における戦車の存在を正当化するためにはどうしても言葉を必要とする。

大衆の占領軍に対する自発的な抵抗は、非暴力主義の徹底という面でも、合法秘密放送・出版という面でも高度に組織されたものであった。大衆運動における組織された自発性--そういう奇跡的な状況がなぜ68年8月のチェコスロバキアに出現したのであろうか。

南ベトナムの国民解放軍は、抵抗の過程を通じて組織された自発性そのものである。チェコスロバキアの場合、組織のあらゆる水準で国民が結束した。それが可能なのはあらかじめ全国民的な組織が機能していたに違いない。
45年にナチから解放したソ連軍は共産党政権を成立させ、その組織を鼓舞することで結果的に68年の抵抗の組織性を準備した。抵抗の自発性をよびさまし、チェコスロバキアの大衆行動の独特の性格を可能にしたのはソ連軍そのものであった。
かつそのスターリン主義的な政権への反対に駆り立てた特殊な事情は、
第一、チェコスロバキアは東欧社会主義国の中で、社会主義化以前に唯一工業化されていた国である。
第二、1949年から51年にかけての党内批判の一掃、および48年から56年の間に政治犯で有罪とされた者、6万人から7万人を1968年6月以降再検討し半分から四分の三を無罪にしこと等があげられる。
こういう前史があり、組織の活動家がドプチェク支持に積極的になった。彼らは大衆に対してではなく、大衆とともに自由化の将来に希望を託した。そのときはじめてチェコスロバキア共産党は政権を手にしながら同時に人民の前衛となった。

1968年八月末ソ連の戦車がプラハの舗道の上を走り廻っていたときシカゴでは警察が無防備の青年男女を殴りつけ、蹴倒し、半殺しにしていた。かれらは何をしていたのだろうか。要するに権力が用いる言葉、題目と化した言葉に、別の意味を、現実的な中身をあたえようとしていたのである。

68年パリ会議が開かれ、北ベトナムの代表が北爆の全面停止を求め、米国は反対給付の保護なしには北爆をやめることはできない、と対立していた。
交渉の中ではハノイも頑固だ、とモスクワの知識人はいったが、米国は北ベトナムを爆撃し、北ベトナムは米国を爆撃していない。
その知識人は「ここでは新聞の公式的な説明を信用しないという空気があり、新聞でワシントンが黒で、ハノイが白といわれれば実際には黒白はっきりしない、と考える」
1945年の日本では日本軍国主義の検閲制度が廃止され言論の自由が解放された。
政治体制の根本的な変革を公然と論じることもできたし、日本の古代史の事実を初めて公然と語ることもできた。
8月21日、プラハの青年たちが戦車の前に座り込んでいたときに西欧の都市では抗議のデモがソ連の大使館や領事館に向かっていた。国旗を掲げたプラハの青年たちは主権尊重を叫び国境廃止を叫んだ。東欧では「議会内反対党」の要求があり、西欧では議会外反対がある。一方の英雄はチェ・ゲバラであり、他方の英雄はケネディ
青年の出発点は、いずれの側でも権力によって保障された社会秩序vs個人の理想主義的な自発性、警棒=つまるところ戦車vs人間の言葉である。
 パリの自由は数日、プラハの自由は、数か月のうちに終わった。

 

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REMEMBER3.11

副総理で(さえ)教養は必須だろうに

セクハラの罪は非親告罪に変わった

Q セクハラは違法なんでしょうか?例えば、ある女性の身体的特徴を本人に嫌がらせで言ったり、足を触ろうとしてくるとかは犯罪ですか?

弁護士の回答民事的には不法行為として賠償の対象となるでしょう。
刑事的には、 身体的特徴を嫌がらせでいう行為は… 不特定多数の前で言えば名誉毀損ないし侮辱罪 ストレスでPTSDなどになれば傷害罪
足を触ろうとする行為は… 触り方や部位、場所によって 強制わいせつ罪または迷惑防止条例違反 が、考えられます。

セクハラは違法?合法? - 弁護士ドットコム

麻生君はセクハラという罪はない、わいせつ罪は親告罪だ、と曰くが、調べると簡単に出てくる。

セクハラは立派な犯罪になる(可能性がある)

また上記の中では名誉毀損罪・侮辱罪が親告罪

また昨年法改正にて強制わいせつ罪が、親告罪から非親告罪に変わった。

(改正2017年6月16日、参院本会議で可決、成立)

面と向かって「親告罪わかりますか」なんてトンチンカンな応答ができたものだ。

ましたや「胸を触っていい」「キスしていい」と「足を触ろうとする行為」はどちらが猥褻か。

強制わいせつ罪成立ならば立派な犯罪だからこそ、あなたが信頼する部下の財務省も福田事務次官を処罰したのだ。

 

諸外国からこのような人を代議士に戴く国民その品性を疑われても止む無しだなあ

この人福岡県選出麻生太郎氏は下記にあるようにその知性には大いに疑問がある。

失言問題発言ドットコムより麻生太郎(あそう たろう)は第23代自由民主党総裁。 第92代内閣総理大臣であります。
今は政治家ですが、以前は麻生セメント代表取締役社長であったり、オリンピックのクレー射撃の日本代表だったり(モントリオール大会)という多才ぶりを残しています。
もともと、大久保利通吉田茂鈴木善幸などの血筋を受け継ぐサラブレッドです。 まさに華麗なる家系図です。
しかしながら、自ら「生まれはいいが、育ちは悪い」と言うように、その「失言」や「問題発言」も数多くあり、これからもどんな発言がなされるか…。
■「下々(しもじも)のみなさん」
これは、1979年、衆院選に初出馬したときの演説です。 登壇して一言めがこれです。 支援者の人々もさぞかし驚いたであろう失言です。
■「婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」
すごい時代錯誤な失言ですが、これは1983年の発言。
美濃部都政が誕生したのは女性が彼に投票したから」という理由です。
■「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」
日本の歴史を知っているのでしょうか。 南洋系、北方、大陸、さまざまな地域からさまざまな民族や文化を受け入れて、今の日本があるのでは?
この発言をした場所が、アジアの各地域と日本との交流や文化の多様性を示す「九州国立博物館」というのはウケ狙いでしょうか。
■「金正日に感謝しないといけない」
北朝鮮がミサイルを発射したことでの発言です。 ミサイルで「国際社会が北朝鮮に注目したから」というのがその理由。
■「野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ」
2003年の発言とされています。 もう失言を通り過ぎているかもしれません。
これをもってして野中広務は大激怒。
「私は絶対に許さん!」と自民党総務会にて激しい発言。 麻生太郎は顔を真っ赤にしてうつむくだけだった…ということです。
麻生太郎=フロッピー大臣の呼称をもとになった発言は? フロッピー大臣という呼称が定着した時期があります。 そのもとになったのが次の発言。
■「IT(情報通信技術)の発達で05年までに日本の役所から書類がなくなり、   すべてはフロッピーで済むシステムになる」
これが1990年くらいなら失言ではなかったことでしょう。 しかし、発言自体は2002年。 フロッピーはすでに記憶媒体のメインストリームではありませんでした。
「あの人のあたまの中も1.2MBしかない」などと揶揄されたりしました。

また、もう一つ思い出すのは「未曽有」の読み方。

2008年11月内閣総理大臣として国会答弁で、中国四川省でおきた大地震を未曽有「みぞうゆう」の大災害と誤読。

(総理大臣の読む答弁書にフリガナを振るという親心はなかった)

学習院も日本のためにしっかりしてもらわなければ

その貧弱な語彙力は学習院の教育方法に馴染めなかったことも一因か。

学習院大学新聞社麻生太郎インタビューこのように、体を動かすことに没頭していた麻生氏は、授業での思い出がほとんどないようだ。それでは、大学の試験をどのように切り抜けていたのか。
「私は要領が良かったから、友達からノートを借りて、直前にテスト勉強して間に合わせていたんだ。とにかく、不可を食らわなければいい、という姿勢で乗り切っていたね」。
学習院大学の教育目標(人材育成方針)学習院大学は、学生の個性を尊重し、文理両分野にわたる広義の基礎教育と多様な専門教育とを有機的に結合させた教育課程を通じ、自ら課題を発見し、その解決に必要な方策を提案・遂行する力を十分に身につけた社会人を育成する。

「未曽有」正確な読みの回答は以下画像にあります。

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REMEMBER3.11

総理に(さえ)教養は必須だろうに

不名誉な権力者

アメリカ合州国に、ニクソンがいた。かのケネディーの2代後の大統領である。
間にジョンソンがいるが彼はケネディーが暗殺された後、副大統領であったことから、臨時で大統領となった。そして次のエレクションで選出された。
ジョンソンについては以下を参照

Eagles、Chicago & CCR - 紙つぶて 細く永く

 一方ニクソンはジョンソンの次に大統領となり、一旦再任された後ウォーターゲート事件を起こし、弾劾にかけられた。
その結果、今までのアメリカ合州国大統領の中で任期中に辞職した唯一のアメリカ大統領という不名誉な一人となった。
 日本では歴史的に不名誉な総理といえば滋賀県選出宇野宗佑を筆頭にあげる。

宇野首相の女性スキャンダルって、どんなスキャンダルだったんですか? - ◆宇... - Yahoo!知恵袋

 

とはいえ現在の山口県選出安倍総理も、もはや上位ランクインは間違いないところだ。

北村 隆司氏の下記2013年5月13日ブログから世界で話題を集め出した「安倍歴史観」の余波は、その後も広がりつつあります。 この「歴史観」についての評判を、英、米、ロシア、アラビアなどのメデイアの反応で採点しますと、厳しい批判ばかりで「支持がゼロ」の「完敗」状態です。
麻生副総理をはじめ閣僚が次々と靖国神社を参拝したその時期に、
「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」
村山談話をそのまま継承しているわけではない」等の発言を連発すれば、
「日本右傾化」の声が海外で起こるのはごく自然です。
然し、何故この時期に、誰に向かって、何を目的にこの様な発言をしたのでしょうか?
外国メデイアの流れを見ますと、第一次安倍内閣で始まった安倍総理の「右翼」「国粋主義者」と言う「レッテル」は、今回の騒動で確立して仕舞いましたが、驚いたのは、米議会調査局までが、安倍首相を「誰もが知る強硬な民族主義者」と呼び「首相の歴史観が東アジアに混乱をもたらし、米国の国家利益にも影響する」と言う異例の報告書を出した事です。
それに対し安倍総理は「間違いは訂正を求め、我々の意見を伝える広報体制を強化したい」と強気に出て、米国議会に挑戦されましたが、勝算はあるのでしょうか? その後、親日家のシーファー前駐日米国大使までが、
「河野官房長官談話を見直せば、アメリカやアジアでの日本の国益を大きく損なう」と警告を出すなど、とても安倍総理の予期通りに進んでいるとは思えません。 「いかなる国家も、その国家のために命を捧げた国民に対して、英雄として敬意を払う」事は、中韓を含む世界各国の共通した認識です。
然し、右翼の人達が英雄と称える指導者が「無条件降伏文書」に署名して終結した戦争を「敗戦」と呼ばす「終戦」と呼び、日独伊の三国協定を結んで戦いながら、第二次大戦と呼ばずに「大東亜戦争」と呼ぶかと思うと、
高市自民党政調会長の様に「当時、資源封鎖され、まったく抵抗せずに日本が植民地となる道を選ぶのがベストだったのか?」と、真珠湾攻撃を肯定する様な主張をすれば(注1)、日本の同盟国であった独伊両国も含め、世界の大半が日本に背を向ける事は間違いありません。
この様な、自己宣伝と自己満足の発言が続くと、「靖国」は中韓両国にとっては、かけがえのない外交(圧力を生む)財産になるだけです。 小泉元総理が訪米時に、日本の総理としてはじめて予定されていた米議会上下両院合同会議での演説も、当時の米下院外交委のハイド委員長から「靖国参拝せずの確約を条件にすべき」という意見が出て中止になったそうですから、 当時から靖国問題は「日中」「日韓」を超えた国際問題になっていた事は確かです。
一度貼られたレッテルを剥がす事は容易ではありません。然も、ほっておけば「真実」に化けて仕舞う厄介ものです。
この不名誉な「レッテル」を剥がすには、安倍歴史観への世界の関心が高まり、然もこれだけ評判が悪い今こそ、「大東亜戦争肯定論」「閣僚の靖国参拝正当論」「戦時指導者英霊論」等の論陣を堂々と世界に向かって展開すべきです。
これが出来なければ、地政学も絡む歴史認識問題で「独自」の考えが世界に通用する訳がありません。
繰り返しになりますが、仲間が集まって「独自の歴史観」で気勢を上げるだけでは、独りよがりの「スキンヘッド」集団と大差ありません。

「完敗」安倍歴史観 ─ 論ずるなら、日本向けより世界に向けて! – アゴラ

(注1 奈良県選出の高市氏「資源封鎖され、まったく抵抗せずにわが国が植民地となる道を選ぶのがベストだったのか?」まるで近年の東アジア北の方の国の論理そのままだなあ)*

学問よりもジムにいる権力者

一方下記は電子版ウォールストリートに載った安倍晋三評を記載したblogからの孫引き 

岸信介元首相から受け継いだ安倍晋三氏の特異な歴史観ーーウォールストリートジャーナルの記事から - 日々雑記

本家のサイトは有料だった( 安倍首相が受け継いだ「家業」―祖父の志を果たせるか - WSJ )

Yuka Hayashiウォールストリートジャーナル電子版2014年12月12日号安倍首相は、岸氏に対するこうした歴史的な批判を一蹴している。その根拠として、岸氏がのちの戦犯に関する調査で容疑者にこそなったが、起訴されていないことを挙げている。
 だがそのことは、安倍首相による昨年の靖国神社参拝でさらに冷え切った中国との関係緩和にはほとんど役立っていない。
靖国神社には大勢の戦争の犠牲者と共に、1940年代に岸氏と一緒に収監されていた人々を含むA級戦犯たちが合祀されている(ただし岸氏は祀られていない)。
最近の日中首脳会談では安倍首相と握手を交わした中国の習近平国家主席のしかめ面が印象的だった。
 安倍首相はいくつかの政策で祖父とは意見を違えていることを明確にしている。岸氏は日本の産業を盛り上げるために政府による手厚い介入を支持したが、アベノミクスは農業などの分野の規制緩和を重視している。
 学問に優れ、人脈作りに長けた社交的な人物だった岸氏と安倍首相とでは、そのスタイルも異なっている。安倍首相は祖父に比べて内向的で、余暇時間の多くをジムで過ごしている。

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平然と嘘をつく権力者

2013年7月3日参議院選挙公示前日の日本記者クラブ9党(注1)党首討論会が行われた。
注1 9党(自由民主党安倍晋三 民主党海江田万里 公明党山口那津男 日本維新の会橋下徹 日本共産党志位和夫 みんなの党渡辺喜美 生活の党・小沢一郎 社会民主党福島瑞穂 みどりの風谷岡郁子
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす

その場での安倍総理の発言

日本記者クラブ企画委員倉重篤郎が質問重篤
「お言葉なんですけどね、歴史家に任せるべきは、歴史家の、歴史の事実のね、ディテールであってですね、歴史の総合的判断というのはまさに政治家がすべきだと思うんですね、私は。
 私は過去の例を見てもね、中曽根さんはちゃんとそういう判断をしてきたし、小泉さんも判断してきた。安倍さんは今のようなおっしゃる言い方でね、その判断を示さない。 それ(歴史認識)はあっていいのではね、それは自信のなさの現れなのか、それとも、別のことがあるのか。如何でしょうか」
安倍晋三 「中曽根総理はそういう判断を総理大臣としてされていませんよ」
重篤郎 「侵略と植民地支配という判断をされています」
安倍晋三「いや、されてませんよ、それは」


この質疑では中途半端に終わった。
しかし、調べると簡単に出てきた。公文書衆議院議事録に掲載されている。
(近ごろは公文書も頼りないが、衆議院にきいたところ今まで公表後に誤字脱字では修正したことはあるがそれ以外で修正したことはないとのこと)
国会会議録検索システム 第2号 1985(昭和60)年10月29日

第103回国会 予算委員会質疑第2号東中委員 
東京裁判史観あるいはあなたの言う太平洋戦争史観というものからいけば、太平洋戦争あるいはいわゆる満州事変から後の中国に対する侵略戦争だったいわゆる十五年戦争というものについては、これはもう侵略戦争であるというふうに客観的にはっきりさしてますね。
そういうことについてあなたは、太平洋戦争、そして十五年戦争、あれは侵略戦争であったとはっきり考えていらっしゃるのですか。」 
中曽根内閣総理大臣 
「私は、いわゆる太平洋戦争、大東亜戦争とも言っておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。また、中国に対しては侵略の事実もあったということも言っております。これは変わっておりません。」

つづいて 1986昭和61年9月16日 質疑3号でも重ねて答弁している。

第107回国会 本会議質疑第3号土井たか子
「また、総理は最近、さきの戦争について、私は侵略戦争だったと思っていると述べられたことが伝えられております。いまだかつてない御発言と思われますが、このことについてもあわせてお伺いしておきたいと思います。 」
 中曽根康弘
「私は、六十年十月二十九日の衆議院予算委員会における答弁におきまして、
『私は、いわゆる太平洋戦争、大東亜戦争とも言っておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。また、中国に対しては侵略の事実もあったということも言うております。これは変わっておりません。』
このように予算委員会において昨年答弁しているところでございます。
歴史の解釈、歴史の流れというものは、一つにはやはり国際的に通用する判断で考えられなければならない、そうして、歴史の流れ全般を考えながらこれは大局的に判定すべきものである。
一つ一つの個々の事件というものに焦点を当てれば、両方にいろいろな言い分もございましょう。
しかし、大きな歴史の流れというものも我々はよく考えなければならない。
それと同時に、我が国の主権、独立、内政不干渉を我々が擁護するという点ももちろん考えなければなりませんが、先ほど申し上げましたように、民主主義の大事な点は、その自制力と反省力にあるという点もまた大事な点であると考えております。
 私は、日中戦争につきましては、例えばいわゆる対支二十一カ条の要求であるとか、あるいは張作霖の爆殺事件であるとか、あるいは柳条溝事件であるとか、さまざまな事件がその根底にありまして、中国民族の感情を著しく傷つけていたという事実を否定することはできない。
しかも、それらの事件が起きた場合に、大部分の場合には、中央政府は不拡大方針をとっておったけれども現地軍がこれを次第次第に拡大の方へ持っていったという歴史的事実も指摘されております。
そういうような状態全般を考えてみた場合に、やはり侵略的事実は否定することはできないと私は考えておるところでございます。」

ここまでくると当人も耳が痛いだろう。一事が万事この人の発言は誤った断定が多い。

REMEMBER3.11

日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 30 線路は続く16

線路は続く 目次

線路は続く16 
英国・フランス・ドイツ・スイス・米国との鉄道比較

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イギリス



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フランス



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ドイツ



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スイス

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当初スイスはドイツやフランスに鉄道が開通していた1840年代でも鉄道とは無縁だった。1844年にフランスから延伸されたサンルイ-バーゼルまでの2kmが最初の鉄道といわれる。その後成立した民間地方鉄道では現在までに姿を消したものもあったが今は国の施先として鉄道が重視され、政府や地方自治体による保護が行われている。
しかし、行政としてもその負担が大きいため合理化政策としての企業再編が急速に行われてもいる。
国鉄路線が約3000km、私鉄路線が約2000kmあり、相互の乗り入れ、委託運転、直通運転も多く幹線では国鉄・私鉄の区別はほとんど意識しない。

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アメリ



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日本




以下は同じ縮尺で、英国・フランス・ドイツ・スイス・日本の鉄道路線を比較した。

 

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フランス、イギリス、日本に比してドイツの路線網が密のように見える。そこで鉄道普及率

鉄道普及率

鉄道が隈なく張り巡らされているかを見る指数として、国土面積・人口を鉄道総延長距離で徐してみると以下になる。面積率の順にスイス・ドイツ・日本・イギリスと続く。

しかし人口比率でみると日本は最下位の中国よりは上位になるが下位の部類だ。

国土面積・人口・鉄道カバー率
  a鉄道総延長 b国土面積
平方キロ
面積率
(b/a)
c人口
wikiより
人口率
(c/a)
スイス 4876km '08 41285 8.47 7870000 '10 1614
ドイツ 41981km '08 357121 8.51 82670000 '16 1969
日本 27182km '09 377972 13.91 126670000 '17 4660
イギリス 16454km '08 242495 14.74 63181775 '11 3840
フランス 29640km '08 551500 18.61 62814233 '16 2119
米国 224792km '07 9525067 42.37 323142000 '16 1438
中国 86000km '08 9634057 112.02 1390000000 '16 16163
ロシア 87157km '06 17075200 195.91 146804400 '17 1684
カナダ 46552km '08 9984670 214.47 36290000 '16 780

世界・鉄道路線の総延長距離ランキング - 世界ランキング より

スイスでは1844年フランスの鉄道がサンルイスからバーゼルまで乗り入れた2kmが最初の鉄道であった。
スイスの南西から北東部にかけての平野部に人口が多く鉄道路線もその地に重なっている。図でもわかるがドイツは最も密に路線が張り巡らされている。
数字からはスイスが最も普及率が高い。
アメリカは路線の大半(2000年で158800km70.6%)が貨物鉄道

旅客サービスの価格

日本を100とした場合の旅客運送サービスの内外価格差2004年調査
上段為替レート
下段購買力平価
比較対象運賃 日本 英国 ドイツ フランス 米国
航空 400㎞~
800㎞未満
普通運賃 100 191
220
202
230
181
207
318
395
最低運賃 45 30
35
51
58
38
43
119
148
鉄道 300㎞~400㎞未満 100 188
217
87
99
77
88
191
237
500㎞~600㎞未満 100 157
180
95
108
75
86
158
195
地下鉄 5マイル(約8㎞) 100 250
288
143
163
104
118
126
156
バス 5マイル(約8㎞) 100 143 154 112 148
タクシー 昼間 2㎞ 100 145
166
120
136
122
139
102
127
5㎞ 100 115
132
95
108
59
67
76
94

旅客運送サービスに係る内外価格差調査結果(概要)から

鉄道・地下鉄に注目してみると運営費に助成金が投入されているドイツ、フランスで運賃が安いという結果になる。

ドイツ大使館で調べたが、ドイツ鉄道路線には路線名が無い!との案内だった。

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REMEMBER3.11

教育の崩壊

溶解したエリート

近ごろ騒がれる日本のエリート諸氏の経歴はざっとこうなる。

話題のエリート群像
  おもな地位 生年 高校入学 高校 高校卒 出身大学 学部
寺脇 研 文科省大臣官房審議官 1952 1967 ラサール高校 1970 東京大学 法学部
和泉 洋人 総理大臣補佐官 1953 1968 栄光学園 1971 東京大学 工学部
安倍 晋三 国会議員 1954 1969 附属高校 1972 成蹊大学 法学部
前川 喜平 文科省事務次官 1955 1970 麻布高校 1973 東京大学 法学部
古賀 茂明 経産省官僚 1955 1970 麻布中高校 1973 東京大学 法学部
北村 茂 警察庁・内閣情報官 1956 1971 開成中高校 1974 東京大学 法学部
佐川 宣寿 財務省国税庁長官 1957 1972 九段高校 1975 東京大学 経済
野田 佳彦 国会議員 1957 1972 県立船橋高校 1975 早稲田大学 政経学部
豊田 硬 防衛省事務次官 1958 1973 札幌南高校 1976 東京大学 法学部
今井 尚哉 通産省内閣総理大臣秘書官 1958 1973 宇都宮高校 1976 東京大学 法学部
迫田 英典 財務省国税庁長官 1959 1974 山口高校 1977 東京大学 法学部
大田 充 財務省財務局長 1960 1975 松江南高校 1978 東京大学 法学部
福田 淳一 財務省事務次官 1960 1975 湘南高校 1978 東京大学 法学部
柳瀬 唯夫 通産省経産省 1962 1977 武蔵高校 1980 東京大学 法学部
矢野 康治 財務省官房長 1962 1977 下関西高校 1980 一橋大学 経済学部
河野 太郎 国会議員 1963 1978 慶應高校 1981 ジョージタウン大学

多くが1970年代に高校生活をおくっている。このころの高校教育は1960年代とは大きく変わっている。どの方向に変わったか、現在教育制度については歴史的な検証も可能であるが、門外漢の私では教育の中身についての資料は少ない。
世の中への意識が大きく変わる「疾風怒濤の時代」社会からの影響も大きく、のちの人生を左右する栄光影響(間違いました。一旦訂正したが熟考するとやっぱり「栄光」があっているかな)も受けた、と思える。
(読みにくい人は右がいいたいことです。「のちの人生を左右する影響も受けた」)

ある公立高等学校の変遷8 1970年になにがあったか - 紙つぶて 細く永く

1947年制定の旧教育基本法は以下の前文から始まる。

1947年教育基本法われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。
 この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

教育の変革

1980年に入ると中曽根内閣のもと教育基本法改正が政治議題に上り始めた。そして臨時教育審議会が設けられた。この辺りの影響もあるかな

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しかし、臨時教育審議会の内部では、「教育の自由化」を主張する第一部会と、それに強く反発する第三部会の対立がみられた。
「教育の自由化」論者の代表的人物としては香山健一委員(学習院大学教授)がおり、「学習塾の私立学校としての認可」などを主張した。
「教育の自由化」には文部省や自民党文教族も反対し、第一部会と第三部会の争いは、規制緩和を進める中曽根首相と文部省・文教族との代理戦争の様相を呈した。
結局、答申には「教育の自由化」は全面に登場することはなかったが、折衷案として「個性の重視・育成」がスローガンに掲げられ、「教育の個性化」が提案された。 教育基本法改正などの改革には踏み込むことはできなかった。wikipediaより


そして教育基本法は2006年新しくなりその前文は下記に変わった。

2006年教育基本法我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

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1970年を境に高校教育が変わった。それが何かは分からない。いまのところ状況証拠だ。丁度現在の日本のエリート年代はその影響を受けて育った「生徒たち」だ。

 その当時の教育行政責任者

1968年から1980年の文部大臣
大臣 内閣 所属 就任日
坂田道太 第2次佐藤内閣第2次改造内閣 自由民主党 1968年11月30日
  第3次佐藤内閣 自由民主党 1970年1月14日
高見三郎 第3次佐藤内閣改造内閣 自由民主党 1971年7月5日
稲葉修 第1次田中角榮内閣 自由民主党 1972年7月7日
奥野誠亮 第2次田中角榮内閣 自由民主党 1972年12月22日
  第2次田中角榮内閣第1次改造内閣  
三原朝雄 第2次田中角榮内閣第2次改造内閣 自由民主党 1974年11月11日
永井道雄 三木内閣 民間人 1974年12月9日
  三木内閣改造内閣    
海部俊樹 福田赳夫内閣 自由民主党 1976年12月24日
砂田重民 福田赳夫内閣改造内閣 自由民主党 1977年11月28日
内藤誉三郎 第1次大平内閣 自由民主党 1978年12月7日
大平正芳(臨時) 第2次大平内閣 自由民主党 1979年11月9日
谷垣専一 第2次大平内閣 自由民主党 1979年11月20日
田中龍夫 鈴木善幸内閣 自由民主党 1980年7月17日

リーダーを育てる教育

興味ある論文があった。国家を背負うフランスのENA(日本の博士後期課程に相当)

 ENA創設はフランスの第2次世界大戦後の国家的事業だった。
フランスは辛うじて戦勝国になったが、ナチスの占領を許したのは、「エリートが責任をはたさなったからだ」と歴史家のマルク・ブロックはその名著『奇妙な敗北』で指摘し、エリートを断罪している。
つまり、「エリートのダメな国はダメになる」という強い警告だった。
1945年10月9日に政令として発令されたENAの目的として、
  • 国民的アイデンティティーの再建
  • 官僚の社会的階級からの独立
  • 国益最優先のために各官庁間の隔絶解消
  • 政治からの独立
を規定した。ENAでは、27か月間の授業のうち、1年間は地方自治体や在外大使館など外国での実習、残りはストラスブール(仏東部)の校舎で国内行政(欧州連合=EUを含む)、公共管理、経済分析、司法、予算、財政、外交など官僚に必要な最低限の知識を学ぶ。
 毎年の合格者は80~100人。春に願書を提出し、夏に筆記試験、秋に合格者が発表されるが、倍率は10数倍という「狭き門」だ。
願書を提出できるのは、一つ以上の高等教育の免状のある者。
ほかに3年以上の公務員経験者や10年以上の就業経験者、また外国人の枠組みがある。
通常、「エナルク」と呼ばれるのは、この80人前後の合格者を指す。創立以来、フランス人のエナルクは約6500人、外国人は365人(2016年現在。ENAの公式サイトから)だ。
フランスは目下、国有鉄道(SNCF従業員数約15万人)の民営化反対で労組が長期ストを実施中だが、SNCFナンバーツーの財政局長はENAでマクロン大統領と同級生。最近、記者会見などでメディアに登場することが多いが、さすがにENAで鍛えただけに、スキを与えない受け答えを見せる。
この長身でイケメンのSNCFのナンバーツーが、飲食の席で女性記者を相手に件(くだん)の前財政次官のような下卑た会話をしている姿は、ちょっと想像しにくい。
 高級官僚と記者が会えば、内政から外交まで話すべきネタは山ほどあるはずだ。にもかかわらず、なぜ、あのようなくだらない話しかできないのだろう。フランスでも、取材者とネタ元の関係にある、女性記者と政治家及び高級官僚の恋愛事件は多い。オランド元大統領の元同居人は「パリ・マッチ」の記者だ。職場恋愛、結婚のようなものだ。ただ、そこで財務次官のような会話をしたら、100年の恋も冷めるに決まっている。
WEBRONZAより 山口 昌子 在フランス・ジャーナリスト


日本でもそのような動きはある。京都大学「思修館」

博士課程教育リーディングプログラム | 京都大学 大学院 総合生存学館 (思修館)

REMEMBER3.11