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線路は続く8 採用候補者名簿の工夫
(文中敬称略)
JR7社発足にあたって新会社の採用候補者が選ばれた。責任者は職員局葛西敬之。全職員に旅客会社と貨物会社計7社の中から第一希望から第五希望までを聞き合わせた。そして勤務成績などを加え評価データとして整備した。
また並行して希望退職、国鉄を退職しJRへの採用を望まない希望者の募集も行った。その結果、予定数の2万人を上回る2万2千人に達した。そのため新会社への、「再雇用」を希望する職員を全員採用しても欠員が生じる見込みとなった。そこで井手や葛西たちは下記にあげる国鉄改革法23条の「基準を提示」に目を付けた。
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二人が設立委員会委員長斎藤英四郎に「委員会として採用基準を作ってほしい」と陳情すると、斎藤は「君らがその案をつくれ」と指示をした。葛西らは「不当労働行為といわれないギリギリの線」でその案を作り斎藤に渡した。
採用基準には「(国鉄在職中の)勤務状況からみて、新会社の職員としてふさわしくない者」の除外規定が入れられた。
斎藤は「組織を破壊するようなことばかりやっていた連中を、新会社で、大手を振って歩かせれば、組織は再びおかしくなる。過去の処分歴などが選考基準に入ることはいいことだ」と設立委員会で説明した。
その結果「昭和58(1983)年度から昭和61(1986)年度までの間に停職処分2回以上、または停職6か月以上の処分を1回でも受けた者、それ以外に採用基準に適合しないという理由がある者」という採用不適格基準が盛り込まれた。
この4年間(1983-1986)に限るということになれば、組織を守るために”大転換”を図って分割・民営化路線に協力してきた動労組合員の処分は皆無に近く、国労を中心に全動労・千葉動労に不採用が集中した。(「昭和解体」牧久より)
国労と動労の分離を図り分割民営に賛成した動労に有利に働くような基準作りだったことは否めない。このことが23年という長く厳しい長期裁判の要因ともなった。参照
日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 16 - 紙つぶて 細く永く
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1988(昭和61)年初めの職員数は27万7000人。JR新会社の採用予定数は18万3000人。
しかし、実際は転出者や退職者も増え年度末では職員数は21万6000人まで減少し、新会社発足直前では本州の3社(東日本・東海・西日本)は合わせて9000人の欠員でスタートした。
その一方、北海道で4300人、九州で2300人が地元採用を希望し清算事業団職員として残った。その70.8%が国労員で残りが(動労とは別の)全動労・千葉動労の組合員だった。
そして「新しく」JRの社員となった職員も新しい職場でそのモチベーションの高揚もあいまって勤務についた。
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JR7社発足
国鉄からJRへの歴史は、「昭和の解体」というテーマで語られた。
国交省に日本の鉄道史という資料がある。それによると、
1893(明治26)年度には官私合わせて約3,219キロメートルであった鉄道路線は、1906(39)年度には8,047キロメートルに達した。
轍のあった道 より
轍のあった道 より
国鉄としての総延長路線は20,920kmが最長となった。
その後、新幹線開通に伴って第三セクター移管等でJR路線としても在来線は縮小の一途をたどっている。2014年現在JR総延長20,022km(新幹線2,679km 在来線17,342km)「数字で見る鉄道」
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REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」