このところ画像(図)を処理する事がおおかったがついに、はてなのフォトライフ容量がいっぱいになった。不要な画像(図)を「フォトライフ」から削除する方法が、あるのだが、数十枚削除してもなぜか欲しいだけの容量増加にならない。
それで書き溜めた記事UPは休業。
*
閑話休題
ツイッターにも通じる、レスポンスの速さがなぜか判断の速さとなり、資料をざっと読みで、早い判断を下し、結果的に「間違い助長している」という風潮が多く見られると、じっくり考え思っている。
なにか(ざっと読みすると)支離滅裂に思えるかもしれない文章だな。
調べりゃわかるのに調べない、感情のままに流されているんだ。だれかが「資料をざっと読みで、早い判断を下し」た結果を、自身では検証せずにオウム返しに我が知り顔に周囲に語っている。
昨日訊いた話には沖縄米軍嘉手納基地についての誤謬がある。どうもこのおっさん(あ失礼間違った、自身の無知がでたスンマセン)百田氏の無理やりいいとこどり判断が広く出回っているみたい。
* 例をたとえるのも違いすぎる気がするが、巷には下記のように米軍基地と養豚場を比べて論を張ることもある。
例題
Aの施設が、先に存在した。そのあとで住み込む人たちBが現れた。B地区の住人はAから吐き出される各種問題に意義を申し立てた。
解釈
先にAが存在したということは、Bの住人が住み始めるときにその各種問題はBも認識していたはずでる、つまり後から済んだ住人たちはその各種問題の発生状態を「了解」して住んだのだ。住み始めた後にその問題をことさら大きく問題視するのは、何か裏に「(不当な)利益」を生む要因に魅力を感じたに違いない。
Aのところに自在に「米軍基地」や「養豚場」など施設を入れてみる。Bのところに自在に「周辺住民」やあるいは特定の地区を入れてみる。そして同列に時系列を捻じ曲げて評価する手法だ。
わかり易いように、対策も打たず同じ状態で1年に1度の害を出す場合のことを考えてみる。
過去50年からある時点までのカウントでは、害の合計は50度になる。
つまり50年住み続けている住人Cはその時点で50度の被害になる。新しくその時点で住み始めた住人Dを想定すると、この住人Dは毎年1度の害を受けることになる。
そして20年経たとする、すると住人Cは70度の被害、住人Dは20度の被害である。これに住人Cについては問題施設受け入れに自身の意志が働かなかったことを加点する。Dについては任意でその地区に住み始めたことを考慮しこの加点を低くあるいはなしとする。このように被害を算定する場合は、事前に住むあるいは事後に住むにかかわらず被害算定されるということになる。
つまり事後に住むか、旧来から住んでいるかなんて関係なく居住することで被害を受ける事実があれば被害程度に対する、各種対策を施される必要性がある、ということになる。
これを事後に任意で住んだ場合、それまでに発生した害を認識していたことを持って居住開始後に発生する害まで容認したことにする話だ。
*
昔、養豚場の近くに住んでいたことがある。公団住宅だった。したがって自身で立地を選んだわけではない。時折猛烈に鼻を衝くにおいが漂っていた。あれはたまらない・・。
少し論点がそれたが、事実を捻じ曲げることに長けた天性の瞬間番組構成者、百田氏の講演会演説についていうなら、少しも盲点を突いたものでないということになる。
*
それにしても講演で記者の娘までを取り上げて論及する、おぞましい思考を持つ人間だなあ・・。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なんて気分なんだろうね。
こんな人が経営委員をしていた、某国営放送もこの論に与するのだろう。
REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」