紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は旧Blog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 15 

線路は続く5 禍根を生んだマル生

「生産性向上教育」略してマル生は禍根を生んだ。

マル生は各地の現場で特に組合員に対する「不当労働行為」を引き起こした。特に国労はその影響により組合員が激減した。
生産性向上運動の目的である「労使協調」は同盟(注1)系の組合である「鉄道労組」=鉄労が発足当初から掲げてきた旗印であり、そのこともあって国労動労からの集団脱退者が加入した。マル生が始まる前1970年1月に7万5000人だった組合員は1971年末には10万5000人となった。
(注1 同盟 全日本労働総同盟 - Wikipedia )
そのような状況下でマル生に対する国労の取り組みを決定する第32回全国大会が函館で開かれた。そして「座して死を待つより、起って反撃に転じよう」と呼びかけた。
1971年9月に札幌地裁で「苗場工場不当労働行為事件」の仮処分以下が出た。
国鉄当局は組合員に対し自ら組合を脱退し、また他の組合員を脱退させるような働きかけをしてはならない」 この結果マスコミも時の勢いで組合擁護の記事を掲載する。
そして国労は過剰な一斉反撃に出た。
しぶしぶ同意した国鉄当局とマル生紛争対策委員会(粉対委)が設置された。国労は粉対委でマル生教育実行者と不当労働行為実行者の降格配置転換を要求した。特に地方では水面下で実行した現場管理者もやり玉にあげられ当然やったやらないと紛糾したが組合に押されその結果、疑わしきも罰せられることになり現場管理者は規律維持に自信を失った。
 不当労働行為実行者として現場管理者389人が処分された。また組合側は「三・四・三の昇職・昇給基準」を要求し実現させた。これは従来の慣例をやぶり勤続年数・現職名での経過年数・現職群経過年数それぞれに三・四・三の点数を割り振り昇給者の順位を自動的に決めるという制度である。
 また国労とともにマル生闘争で勝利した動労はEL・DL一人乗務体制での敗北のリベンジにでた。再び二人乗務体制を要求し強力な順法闘争に乗り出した。ATS自動列車停止装置が装備されている車両は信号が停止を示すと自動的にブレーキがかかり列車を停止させる。ところがこのATSでは安全対策上問題がない場合でもブザーがなり働くことがある。その場合は安全を確認し、ブザーを切って進行するのだが、動労は順法闘争として通常は、問題のないATSのブザーであっても必ず停止するという戦術に出た。1973年3月の順法闘争初日では首都圏の国電504本が運休、2860本に最大1時間半の遅れが発生した。その後も混乱した事態に政府も介入し実力行使の中止を要望したが事態は改善せず、新幹線も含む順法闘争に乗客の怒りが爆発した。4月24日大混乱の中関東大宮駅、上野駅赤羽駅、有楽町駅、新宿駅で乗客が騒ぎ出し暴動状態となり、首都圏の国鉄のは翌日25日夕刻まで空前のマヒ、乗客など138人が逮捕された。国鉄当局は一連の闘争に対する処分として、解雇28人を含む処分11万4951人を発表した。

さらに1974年の春闘オイルショックによる狂乱物価の中行われた。前年秋にはトイレットペーパーや洗剤、砂糖などが不足するという噂が流れ、スーパーに長蛇の列ができた。消費者物価指数は前年比12%の上昇で春闘もインフレ防止、物価値上げ反対で盛り上がった。しかし最大のテーマは公務員のスト権問題であった。
春闘共闘委員会はすべての官公労働者にスト権の保障をすることを求めて、ゼネストに突入した。
 国労動労は4月11日から新幹線・国電を含む国鉄全線ストを実施。歴史上初めて国鉄列車は全面運休した。

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さらに田中内閣から政権交代した三木内閣でスト権付与という方針が大きくな実現性をもって検討されているときに、「三木降ろし」に翻弄され結局、首相を辞任し自民党からもはなれた田中角栄の影響もあり自民党内は反スト権付与の流れとなった。
 この経緯を茶番として組合側はさらに過激となり、1975年国労動労全逓全電通などで結成された公労協と政府との直接折衝でも展望が開けず、11月26日から八日間192時間のストライキに突入した。
 国労動労は前夜からの長距離夜行列車も指名ストとし、この日の国鉄列車は新幹線、国電、在来線2万3000本が完全ストップ、動いたのは国鉄当局と協調路線をとる鉄労の協力で三本の近距離列車と660本のローカル列車のみであった。

陸の孤島そのころ私は泉北ニュータウンに住んでいた。大阪府堺市から和泉市にかけて開発された新しい街で、大阪の難波まで泉北高速鉄道南海電車が相互乗り入れしていた。大阪北区の勤務先までの足はその泉北高速鉄道が唯一の公共交通機関であった。1974年の交通ゼネスト当時は、それ以前からのストライキ慣れもあって、会社は休みとなった。
当時最初のうちはスト前日に会社の車に乗って帰りスト当日は朝早くから大阪をめざした。しかしサラリーマンの多くが同じように大阪を目指すので周辺道路は大混乱し、実際にたどり着くのは昼前くらいだった。会社についても帰宅の混乱を考えると仕事にならず、結局会社も勤務可能なものだけの出勤で、最初からほぼ不可能なものは休暇をとらせていた。確か好天で団地の芝生で子供と遊んでいた記憶がある。


スト権ストは不毛に終わった。
スト初日の築地中央市場は列車を避けトラックによって運ばれた生鮮食品であふれていた。スト権ストには私鉄や海運、航空会社は加わっていなかった。
国鉄の貨物輸送量シェアは1965年30.3%であったが1975年には12.9%まで下落していた。国鉄そのものがすでに時代遅れとなっていた。国鉄の運行はマヒしたが国民生活はマヒしなかった。
 八日間にわたるこのストで国鉄の全面マヒは192時間に及び18万4000本の列車が運休、想定のべ1億5000万人に影響を与えた。
この結果に政府自民党側が反撃に出る。国鉄当局に「違法」ストに対する厳正な処分と同時に、国労動労に対する損害賠償請求をするように求めた。
そして国鉄当局は解雇15人を含む5405人の処分を通告、国労動労に対し202億4800万円の損害賠償を請求した。
(これら損害賠償請求はまず分割民営化の容認をした動労を免除し、最終的には1994年国労とも和解し請求を取り下げられた。202億円損賠訴訟は、基本的態度を堅持し和解 | 国鉄労働組合

これらの紛争について、国労の星、富塚三夫は振り返る、「マル生闘争の反動で、一部の職場では国鉄当局も組合の中央指導部もコントロールしがたい状況が生まれた。コントロールできなかった組合の指導にも問題があった。組織的にコントロールをかけておけば、国鉄分割民営化の際に、指摘された職場の規律の乱れを防げただろうと悔やまれる」
富塚三夫の指摘するように、この時の職場規律の乱れがなかったならその後の分割の動きも異なったものになったにちがいない。

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