紙つぶて 細く永く

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官吏の習性

今回の「森友学園」でも感じたが、公務員が扱う金銭感覚は一種不可思議なものだなあとつくづく感じる。
 何事も一種の契約に基づいてことは始まり、「発注」行為が、あり「納品」行為を受け、「検品」を行い、「請求」を受ける。それがたとえ同じ相手から同じ日に「納品請求」をうけても、「契約」が異なれば一件ごと個別案件として処理をする。
 原因は予算によって縄張りが決まっているからだろう。
したがって同じ日に同じ製品を同じ部署に、別予算で納めるときに価格が異なっても異をとなえない。
 そのような流れの中で、今回の土地売却問題が発生したとして、隣にある同様の土地価格と「森友学園」に売却した土地の価格を、そもそも比較検討なんてしないのだ。異なる契約に基づいた「製品」の売買に比較なんてことはしない。だから片方が10億円であり、もう一方が1億円であろうと、躊躇しない。どのみち「私」のふところは痛まない。
「国民の血税」であろうが、最終的に破たんするのは国家消滅の時だ、国民がある限り税は納められ、「私」の所得は確保されるにちがいなかろう。
 だから「少し」の無駄はあるかもしれないが・・、えいやと決めてしまった、となって官吏のいう「少し」の差額8億円が発生した。
後は世間で言われる官吏個人の「自己責任」は問わないという金科玉条である。
 官吏は主張する、
なぜなら作業を行った「私」は「国民の財産を国民に委託されて取引や処分を行うのだから窓口担当者に過ぎない」
事後にはこの原則に会うよう、説明時に糊塗すればいいのだ。
 となってその結果財務省はあたふた糊塗している。

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嘘について(抜粋)-加藤周一政治家にかぎらず、誰にとっても、嘘をつくことは世わたりに必要である。
無用 な摩擦を避け、人間関係をなめらかにするためには、誰でも嘘をつかなければなら ない。
頭の甘い美人に会えば、「鋭い意見だ」といい、よぼよぼの老人に会えば。「お元気ですね」といい、上司に対しては常に「御説ごもっとも」というのが世の中の 原則であろう。
礼節と嘘は分かち難い。商品の広告は多かれ少なかれ人をだますことを目的とする。
 社会的反響を予期する政府や報道機関や個人の発言には、ある種の嘘が必要かつ望ましいこともある。たとえば通貨の切り下げを予告する政府はない。これは沈黙 (情報非公開)による一種の嘘であるが、もし予告すれば、投機的な売買で市場が混 乱するだろう。
 また選挙のまえに敗北の予想を正確に公表する政党はない。公表すればさらに票を失うだろう。選挙に限らない。市民運動の支持者が。その運動の先行きに悲観的 な判断をもつとき、その意見を正直に公言すれば運動の勢いを弱め、発言の目的に反する。みずからの判断よりも楽天的な意見を述べれば、その嘘が運動の力を強め、 運動支持の目的にかなうかもしれない。
そういう場合には、嘘をつくことに目的合理性があるだろう。
 孫子の兵法は、敵をだますことをいくさの要諦として、指揮官がどういう嘘をつくべきかを列挙していた。日本の戦国時代の武将は、いかに敵をあざむくかに工夫 をこらし、太平洋戦争の軍部は、敵ばかりでなく日本国民をだますことにさえも精を出していた。戦後、武者小路実篤が「私はだまされていた」といったのはそのた めである。
  しかしだまされるのは、常に不幸なことだろうか。そうでもなかろう、だまされることは、是か非か、俄には判じ難い人情の機微というものであろう。
 もちろん嘘をついて人をだますことが、大きな不都合を生み、自他に重大な損害をあたえることもある。たしかに人生は嘘を必要とするが、それは程度問題で、嘘 をくり返せば、当人のいうことを誰も信用しなくなるにちがいない。狼が来たという嘘をくり返した少年を村の人は信用せず、ほんとうに狼が来たときにも助けにゆ かなかった。日本国民は太平洋戦争の末期に「大本営発表」をほとんど信用しなく なっていた。 「すべての政府は嘘つきである」と書いたのは、「冷戦」時代の米国で活躍していた記者、I・F・ストーンである。政府の操作する情報の行間に真実を読みとる他は ないと感じていたのが、彼だけではなかったからこそ、彼が一人で書き、編集し、印刷し、郵送までしていた個人週刊紙『ストーンズーウィークリー』(注)には報道関係 の読者が少なくなかったのである。
 くり返される嘘は、狼少年と村人、政府と国民の間の信頼関係をこわす。 民主主義国では国民が主人であり、国民の支払う税金で傭われ、国民から委託された業務を行う政府は、使用人の集団である。使用人が主人をだますのは、原則と して、不正であり、民主主義の破壊である。
 使用人の嘘が正当化されるのは、主人の利益を守るためにどうしても嘘が必要な例外的場面に限られるだろう。その場合には、なぜ嘘が必要であるかの理由が、主人側によって十分に理解できるものでなければならない。たとえば、首相が急病で入院したときに、自宅にいると政府がいうのは嘘である。それが国民の重大な利益のために必要だという説得的な説明がなされないかぎり、その嘘は権力の濫用であり、民主主義の原則の侵害であり、国民の重大な不利益である。
 しかし嘘つきが他人をだますだけでなく、自分自身をだますこともある。ドンーキホーテの従者サンチョパンサは、田舎娘を姫君と偽って、主人をだまし、だましつづけているうちに自らの嘘を信じるようになった、とセルバンテスは書いていた。
 ほんとうでない話を、それと知りながら人に信じさせようとするのが嘘である とすれば、みずからも信じる嘘はもはや嘘ではない。嘘つきは、そこで、自らの馬 鹿げた信念を他人に押しつける狂信者に変わる。
 なぜそういう変化が生じるのだろうか。
第一に、嘘をつづけて話のつじつまを合 わせるためには、それなりの知的努力が必要だが、自らの嘘を信じてしまえば、そのテマが省ける。
第二に、主人-または時代-の信じている作り話を自分も信 じれば、少なくとも当分の間、生活が楽になることはあきらかである。
第三に、相手方が当方の言い分にまだ十分説得されていないとすれば、嘘をついてだますより も、自らぽんとうだと信じる事例を以て迫った方が説得力が大きい。
 嘘の説得力には限界がある。たとえばジョルダーノ・ブルーノがフイレンツェの市民を説得したのは、巧みに嘘をついたからではなく、彼自身の確信するところを 語ったからである。嘘つきの及ぼす害毒はおよそ予測することができる。嘘つきが自らの嘘を信じはじめた後に生みだす害毒は測り知ることができない。
 天下国家の安泰は、みだりに嘘をつかぬ政府によるところが大きいだろう。
その次には、むやみに嘘をつくが、みずからはそれを信じない政府。
最大の危険は、その現実判断がみずからの嘘から強く影響される政府である。
第一の政府は民主主義的、
第二の政府は非民主主義的・現実的で、
第三の政府は非現実的・狂信的といえ るかもしれない。今の日本政府はそのいずれの型に属するだろうか。その答は、つ まるところ、日本国民の判断に待つほかはない。

(注) 参照

記者鑑または『ストーンズ週刊誌』の事(加藤周一さん)1975年3/11朝日新聞 ( その他文化活動 ) - tassa税金taxSteuer,impuesto - Yahoo!ブログ

(おまけ)今回調べてみてびっくりしたのは、加藤周一に政治家を揶揄した文章は多いが、いわゆる官僚を批判した一文は見つからなかった。(他にあるのかなあ)

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」