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紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

学問の自由と大学の危機2

国際・政治 学問

本の紹介。「学問の自由と大学の危機」続きです。

明治末年1912年に美濃部と上杉愼吉との間で争われた論争は1935年の「事件」と区別して天皇機関説「論争」と呼ばれる。
美濃部は比較法制史の先生であったので、ドイツ留学中はついに国家学・憲法学の先生であるイェリネックの門をたたかなかった。引き換えイェリネックの家に住み込んで、家族同様に可愛がられて留学生活を送ったのは美濃部より5歳下の上杉愼吉でした。かれこそ東京帝国大学における憲法講座の正当な継承者で天皇主権説を説いた初代担当者の穂積八束から大いに嘱望された。だが上杉自身は当初イェリネック流の憲法学者として天皇機関説に与していた。しかし昼夜兼行の過酷な勉強が祟ったのか留学三年目で精神に変調をきたし、大恩あるイェリネックに黙って帰国。そのとき上杉は穂積流の天皇主権説に変わっていた。そして美濃部の「憲法講話」を論難し二人の間で論争が展開される。結果この論争に美濃部が勝利し大正期の国家叙述の文法が美濃部によって定まってゆく。1920年東京帝国大学憲法第二講座が新設され美濃部は晴れて帝国大学憲法正教授の座に着く。このころの美濃部のライバルは民本主義吉野作造の盟友京都帝国大学の佐々木惣一(注)です。美濃部よりも条文の文言を尊重した佐々木の憲法学体系には旧憲法4条におけるトレーガー・総攬者としての天皇の位置づけを重く見て「国体」という項目を持っていた。

(注 教え子に大石義雄教授がいる 大石義雄 - Wikipedia )

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天皇機関説事件は学問の自由の大幅な侵害であり文部省が大学における教授の自由に大規模に介入した。ことに大学の自治ということについていえば佐々木惣一が主役として関与した二つの事件が重要だ。ひとつは「澤柳事件」。1913年から14年にかけて京都帝国大学で起こった。当時の京大総長は澤柳政太郎。澤柳が教学の刷新と称して理系を中心とする七名の教授を罷免しようとし、現在の法学部にあたる法科大学の教授会と激突する。この戦いに東京帝国大学法科大学も連帯をした。その結果文部省側が敗北をし「大学の自治」がこの事件で確立、佐々木惣一をはじめとする少壮教授にとっては文部省を大いにやり込めたという成功体験となった。
第二は「瀧川事件」 右翼思想家および陸軍出身の貴族議員菊池武夫らが帝大法学部の「赤化教授」の追放キャンペーンを打ったことがきっかけで、内務省京都帝国大学の刑法学者瀧川の「刑法講義」「刑法読本」を発禁処分とした。そして文部省が京大の小西重直総長に瀧川の罷免を要求し、法学部教授会および小西総長はこの要求を拒絶したにも関わらず文部省は瀧川の休職処分(注)を強行。これに抗議して京大法学部は全教官が辞表を提出した。
(注 旧法では休職は所属長の権限でできた。官吏分限令 - Wikipedia
ここでは京都大学のこの事件を静観した東大法学部が京大法学部との連帯を表明しなかったことがポイント。美濃部もこの問題にはタッチをしなかった。京大法学部は文部省の分断工作に屈し、残るもの、出るもの、出てもう一度戻るものばらばらとなり、そんな中瀧川本人や佐々木惣一ら主力の受け皿を買って出たのは立命館大学
ところがその二年後美濃部自身が事件に巻き込まれる。きっかけは上記の菊池武夫が1935年2月18日貴族院でおこなった美濃部弾劾演説。天皇機関説を「緩慢なる謀叛」「明らかなる叛逆」と決めつけ美濃部を「学匪」とした。政治的功名心に駆られた菊池の演説風景は、
Blog記 この文章ではここでなぜか以下の一文がでてくる 喝采!
実は最近の国旗国歌に関する松沢成文(Blog注)議員の質問のそれと酷似しておりまして非常に気持ちの悪いデジャビュ感があります
Blog注 4月16日の文教科学委員会で質問しました|活動報告一覧|松沢しげふみ公式サイト|参議院議員) 彼「自信満々」の質問に差し替えました。
おそらく右翼思想家蓑田胸喜の入れ知恵で菊池はどうせ美濃部の本をよんでもいないだろう。また一面では美濃部に、その捜査手法を杜撰と非難された検察サイドに立つ平沼騏一郎枢密院の万年副議長)が美濃部の恩師・一木徳郎枢密院議長の追い落としも兼ねて裏から菊池に働きかけたかともいわれる。美濃部は菊池に面罵されたことで黙ってはおられず貴族院で有名な「一身上の弁明」を行った。非常に論理的で説得力があり菊池本人も含めてその場では皆納得をした。しかし在郷軍人会や民間右翼団体が怒りだし、反知性主義に抑えが利かなくなり平沼騏一郎の子分・衆議院議員江藤源九郎が不敬罪で美濃部を告発。ちなみにこの際の取り調べ官は教え子。内務省から主著3冊が発禁という行政処分を受ける。特に酷かったのは、党利党略という観点から立憲政友会が機関説批判に乗ってきたこと。大臣経験者の山本悌二朗議員がしゃしゃり出てきて美濃部を弾劾し穏便にことを運ぼうという政府に対して異を唱え、自ら立憲主義の息の根を止めるような行動にでる。まさしく日本の議会政治に時代を越えてよくみられる風景がちりばめられている。
他方「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを作成していた陸軍省がこの機に乗じどんどん入り込んでくる。この機関説問題にかこつけて政府に対する批判的議論が持ち込まれ、そして一気に悲劇へ。
文部省も思想統制を開始する。思想局を中心に教授の自由への介入が激化し、各大学の憲法学者一人ひとりがやり玉に挙げられる。報知新聞には各大学の憲法学者について天皇機関説を取っている場合には黒い三角をつけた記事がでる。これを見てみると美濃部説の先生をパージするとほとんど講義が成り立たない。
事件の翌年1935年2月に美濃部達吉は右翼の暴漢・小田某にピストルで狙撃される。銃弾は右ひざ大腿部あたりに打ち込まれたが出血は多くなく無事であった。このショッキングな事件の数日後に、天皇機関説事件の論理的帰結として二二六事件が起こる。天皇機関説事件以後矢内原忠雄・河合栄次郎・津田左右吉など、左翼とは一線を画す自由主義者までが思想弾圧の対象となり、もはや大学は自由な学問にとって防波堤たりえず、一般国民の内面における精神の自由にまで浸潤した。

こういう事件があって、戦後にこれを反省する五七調の憲法23条「学問の・自由はこれを・保障する」ができた。この条文は立憲主義の標準装備ではない。ドイツ型大学が自治を獲得したという歴史的過去を憲法に刻み込んでいるのが「学問の自由」規定。ドイツ型大学とはフリードリヒ・パウンゼンが定義したイギリス型・フランス型と比して行われる整理の仕方。イギリス型は中世的な修道院形式の学問共同体でかつ私立。これに対してフランス型は官立の専門教育機関を前提としそのもとに学問を副業として行う。ドイツ型はイギリスとフランスの中間で大学は公営の建物で官立大学として設置され、それゆえ設置者は「税金でつくられた大学なのだから」ということで、設置目的を大学に押し付けてくる。しかしドイツの大学人は大学とは専門教育目的の営造物である前に内発的な研究目的よる学問共同体で、公務員である前にまずもって大学人である、と主張し政府・設置者に対抗する。そうした闘争を勝ち抜いて大学の自治を確立しその成果が学問の自由として憲法にも刻まれた。
もちろん1個の組織や施設を設立する以上設置目的があることは当然。しかし憲法が「学問の自由」条項を通じて大学の自治を認めたということはそういう設置目的や設置者の意図をあえて持ち出さない約束をしたということ。ところが今日の日本での大学論議には設置者とりわけ国公立の場合は納税者の意思あるいは感覚が協調される。しかしこれは紛れもなく憲法問題で憲法23条を掘り崩そうという企てに他ならない。
このように大学の自治こそが堤防となってどうにか公と私の境界線が維持されていたものが大学の自治を突破されるや否や、その堤防が一気に決壊したのだ。その後は皇室祭祀と神道式の儀礼によって公共あるいは全体が歯止めなく私の領域に入り込み、わずか10年で国を亡ぼすことになった。
なお設置者・設置目的を持ち出さないという約束は、設置者が国または地方公共団体である場合だけでなく、私立大学にも当てはまる。判例は「大学(blog注 そのものとして)は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と芸術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定」できる、ということを強調。最高裁昭和49年7月19日判決昭和女子大事件 上告審
設置者・設置主体を持ち出さないという約束が大学の自治を定める憲法23条の「学問の自由」の要請だった。そしてそれこそが公私の境界線を護るもっとも需要な堤防のひとつであった。以上「卒業式の式次第」と「学問の自由」という一見関係の薄そうな論点がじつは「公共空間の再編」「公共空間と私的空間の境界線」「堤防としての大学の自治」というより本質的な憲法問題に深く連関している、しかも現在は憲法が保障するこの本質的な内容が正式な憲法手続きによらないでいわば裏口から侵害されようとしている危機的な事態である。注意しなければならないのはいまから思うとこの80年を振り返って瀧川事件や天皇機関説が、意外なほど同時代人の関心を集めていないということ。実際のところ「事件」は大学外の人々の共感はほとんど集まらなかった。北岡伸一「清沢冽 外交評論の運命」を読むと反権力的文筆家が非常に冷笑的に瀧川事件その他の騒ぎを観察していたことがわかる。清沢のような人ですらそうなのですから一般の人々からの連帯の意思表示も全然見られなかった。そうこうしているうちに彼らもあっという間に時代の波にもっていかれてしまったのです。
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