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学問の自由と大学の危機1

本の紹介です。「学問の自由と大学の危機」
天皇機関説事件80周年という石川健治先生の文章です。夏目漱石美濃部達吉、その兄美濃部俊吉、浅井忠等が出てきます。

テムズ川に臨むロンドン塔ボーシャン塔について書かれた1枚のはがきがあるそうです。「此の塔の中には押し込められた居た囚人が壁を爪か何かでほって書き残した画や字が沢山保存されて居る。・・昔に歴史で覚えた著名人の爪の跡を見ると、夏目君でなくとも、感じが深い・・」
ここに出てくる「夏目君」とは夏目漱石のことで、はがきの筆者は美濃部達吉だそうです。当初は美濃部の兄俊吉と思われていたのですが浅井忠によってかかれたデッサンがありその中に漱石美濃部達吉が画かれていたのです。
漱石はボーシャン塔について「倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸の歴史である。・・模様だか文字だか分からない中に、正しき画で、小く「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。動かないというよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている」と述べています。

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歴史の痕跡は東大の25番教室にもあった。この25番教室のある建物の敷地は正八角形の痕跡を残している。この建物の下に、かって美濃部達吉が講義をした八角講堂が眠っている。八角講堂が関東大震災で灰燼に帰したあと法文1号館が竣工した。丁度築80年を迎えた。それは天皇機関説事件が勃発したその時から80年であり、この建物では日本国憲法施行の翌年に美濃部達吉の告別追悼式が行われた。さらに大学の自治を語る際に忘れることのできない最高裁判例を作った「東大ポポロ事件」の現場もここになる。

美濃部達吉はもともと憲法が専門ではなかった。比較法制史という現在でいうと西洋法制史の先生であった。そんな中で美濃部達吉をもっとも魅了したのはドイツのゲオルク・イェリネック。その歴史的スケール感のある学問であった。美濃部はハイデルベルグにも滞在したことがあったが法制史の研究に専心しイェリネックの謦咳に接する機会を逸していた。それを終生後悔する。そうしたイェリネックの国家学に自らの法制史研究の蓄積を加味して、近代国家や近代憲法のイメージを作ってゆく。

美濃部の国家イメージを理解する一助として「儀礼と公共空間」を取り上げる。文部科学大臣が国立大学に入学式・卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱を要請するということの意味を理解するうえで重要なものとなる。
まず第一に戦前においても、ある種の「日本型政教分離」はあったのだということ。「祭政一致」の公共空間と、人々が信教の自由を享受する私的空間はそれなりにきっちりと分けられていた。もちろんそれは公共空間から社会に浸潤してくる国家神道にたいして宗教界による懸命の抵抗が行われた結果である。私的空間における信教の自由は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」曲がりなりにも確保された。その代わりに公共空間は、もっぱら神道式の儀礼によって演出されることになる。神社を中心とする敬神崇祖の営みは、個人の信仰とは次元を異にしているから、それを臣民に強制しても信仰の自由の侵害にあたらない、とし国家制度上神社と宗教は載然と区別され神社は内務省神社局、宗教は文部省宗教局の管轄であった。そうした神道式の儀礼の体系において、中核をなすのは皇室祭祀。美濃部達吉はこれを「祭祀大権」となずけた。確乎とした信仰をもつ「臣民」は皇室祭祀と神社参拝に対しては、信仰の自由と引き換えに思いを飲み込んで、信仰を伴わない外形的な臣民の儀礼として参加した。(この点少し無理があるようにも思うが・・)
美濃部達吉は世界観的に無色透明な「法学的国家論」によって「祭政一致」の大日本帝国を近代立憲国家に読み替えようとした人物です。これが大正デモクラシーを演出したのです。しかしそうした公共空間を下支えする日本型の「政教分離」の現状に、美濃部は強い不満も抱いていた。

これに対して戦後は演出の仕方が大きく改革された。ポイントはGHQ主導のいわゆる人間宣言天皇神格化の否定)と神道指令(国家神道の否定)です。これによって日本国憲法は、象徴天皇制政教分離制を定め(日本国憲法1条、4条、13条、89条)それらによって演出された軍国主義を政治社会から締め出した(9条)。かくして完全なる意義に於いての国家と宗教の分離が実現し、宗教的に中立な公共空間が成立する。これに呼応する形で私的空間において個人の尊重と幸福の希求(13条)を核心として思想良心の自由(19条)や信教の自由(20条)といった魂の自由が保障されることになる。かっての皇室祭祀と神道式儀礼に替わって、公共空間を演出するのは憲法21条で自由を保障された、言論・出版その他の旺盛な表現行為です。公共空間ないし政治社会を維持してゆくのはわれわれの活発な公共言論それ自体だということ。
しかしこのようにして演出される無色透明の公共についてはそれに対する国民の情熱や献身が生まれにくいという問題があります。価値中立的な無色透明の国家に対して、命を懸ける気持ちにはなかなかなれません。公共がやせ細ってゆくのです。そこで活力ある公共や強い国家を作るためには情熱と献身に値する基本価値を注入する必要があると考える人が出てくることになる。欧米であればキリスト教を背景にした「人間の尊厳」となることが多く、立憲主義に対して順接的に接続できる側面がある。しかし今の日本において「愛国心」という名のもとに掲げられる基本価値は立憲主義とそりが合うものになるのか。「伝統と文化の尊重」「我が国と郷土を愛する心」の美名において、戦後の政治社会で出入り禁止なった言説が還流してくることはないのか。警戒的にならざるを得ない。情熱と献身を調達するためには基本価値そのものを話題にすることは効率的でない。ショート・サーキットして一瞬にしてその価値を想起させる「象徴」を用いた、儀礼的な演出が有効です。いかなる国においても国家象徴といえば、まず国旗であり、次に国歌なのです。日本ではここに象徴天皇が加わります。国家における象徴作用の政治利用は公共のつくり方を左右します。そこが現在大きく改造されようとしているのです。卒業式等における国旗国歌というのは、しょせんは式次第の問題であり儀礼の問題であってそれほど目くじらを立てる必要もないのでは、という感想も少なくないのですが、ここで問題になるのは戦後憲法における公共空間のつくり方という根本問題であり、これがひいては私の自由のあり方を改造していくことにつながります。私の自由を直接的に制約することにはならないが、間接的には信仰の自由を制約しているのだということ。これは現在の最高裁も一般論としては認めるところ。卒業式等における国家斉唱の際に、起立斉唱行為を都立高校職員に義務づけた校長の職務命令に関して「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い(最高裁判決平成23年6月6日)」と述べている。結論は合憲という判断であったが「式次第の問題」が、間接的ではあれ内面的自由を侵害する憲法問題を構成し得ことを最高裁も認めた。

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私的空間を担保する公と私の境界線ははきわめてもろいものだ。その境界線を突き破られたのが1935年の天皇機関説事件であった。
大事なのは天皇機関説とは1個の法学的国家論ということです。法学からみた人間的世界はきわめて味気ないものです。すぐ隣に愛する人がいたとして感情もあり温もりもありかけがえのない存在である。が法学的認識のメガネをかけると「法人格」というのっぺらぼうな冷たく無個性的な存在のみが見える。生物学的意味での「人」以外の存在にたいして法人格を認める場合には特に「法人」と呼びます。そして国家イコール法人ととらえる国家法人説が通説になった。国家法人はその統一性を保つために最高機関というものが必要になる。機関の行為はその権限の範囲内では法人の行為とみなされます。部分としての機関の行為を通じて全体としての法人の行為を法学的に認識することを機関説という。いかなる法人であっても定款というルールを持っており法人の最終的な意思を決定する最高機関が定められる。これを国家に当てはめれば国家法人の定款にあたるのは憲法であり、憲法をみれば最高機関について定めがある。大日本帝国憲法の場合それは天皇に決まっているではないか、というのがいわゆる天皇機関説で法学的国家論としては非常にスムーズに出来上がっている。

美濃部の考察は徹底している。制度上の君主政体や共和政体には意味があるが、教育勅語に反映されているような情緒的な「国体」論は憲法論から遮断されるべきだと、文部省主催の中等教員夏期講習会で述べている。冷静になればわかる話ですが、一方頭に血の上がった人々からは「国体に関する異説」であり、不敬であるとされる。
この憲法はだれがつくったのだろうかという問題は美濃部にしてみれば法学的には意味がない。国家論においても国家のトレーガー(Träger)は誰なのかという問題が強く意識される。しかし美濃部の考えでは「天皇神聖にして侵すべからず」の神聖不可侵はヨーロッパの君主制憲法では標準装備で君主は刑事訴追されたり民事裁判で損害賠償を求められたり政治責任を追及されることはないといった、法律的意味で語られる条文。しかし、大日本帝国の国柄とか帝国憲法の生まれ、正当性というものにこだわる人からすれば、天皇神格化の根拠条文であり、民族的な表現であるという特別な思い入れをこめてしまう。

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REMEMBER3.11

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