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空海8章 宗学者と司馬遼太郎

空海は長安に入った。時は804年12月23日 暮れも押し迫ったころである。そして明けて翌805年1月23日に唐の徳宗皇帝が亡くなり28日太子が践祚し次の皇帝順宗となった。この行事で遣唐大使藤原葛野麻呂一行は多忙を極めた。そして遣唐大使は2月10日許可をされ明州から帰路についた。空海は留学生として残り、長安延康坊の西明寺に用意された一室に荷を明けた。
ここから司馬「空海の風景」は筆が進む。それは真言宗系の宗学者から大いに批判される内容となっている。

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今日のプリン(カラメルが薄すぎた。カラメルは難しい)

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漢詩 長安春   作 韋荘

長安二月多香塵  長安の二月香塵(こうじん)多し、
六街車馬聲轔轔  六街(りくがい)の車馬、聲轔轔(りんりん)。
家家樓上如花人  家家樓上 花の如き人、
千枝萬枝紅艶新  千枝萬枝紅艶新なり。
簾間笑語自相問  簾間(れんま)の笑語自ら相問う、
何人占得長安春  「何人ぞ占め得たる長安春」と。
長安春色本無主  長安の春色 もと主(あるじ)無し、
古来盡属紅樓女  古来盡(ことごと)く属す紅樓の女。
如今無奈杏園人  如今奈何(いかん)ともする無し杏園の人、
駿馬輕車擁将去  駿馬輕車 擁し将(も)ちて去る。

空海が長安に入ったのは二月ではなく12月であったが華麗な色彩をまじえた喧噪、人の往来の目まぐるしさは変わりない。長安には紅毛碧眼の西域人が革のコートを着、革長靴をはいて悠然と歩く姿に驚いただろう。

帝城の男女、土庶はことごとく春を待ちかねる。
正月の半ばごろはなお零下にさがる日が多いのだが、それでもなお探春のために山野へ出てゆく。すでに二月十日というこの日は、春を見るがための車や騎馬が、しきりに空海と逸勢のそばを通ってゆく。かなたの丘を、白馬でくだってくる貴公子もあったであろう。

五陵の年少、金市の東
銀鞍白馬、春風を度る
落花、踏み尽して、
何れの処にか遊ぶ
笑って入る、胡姫、酒肆の中

この詩は、帝城の城内での情景だが、郊外の探春において、銀鞍白馬の少年に遭うこともしばしばだったにちがいない。あるいは、騎行の少女に遭ったか。
長安の若い婦人は、騎馬を好んだ。それも流行として好んだ。流行は性的魅力とつねに無縁でないが、それらは西域からきた紅顔碧眼の胡女たちがもちこんできたものとされる。この時代、長安の婦人の流行は、保守的な老人がなげくほどに西域の婦人の衣装をまね、所作をまねた。身に白い軽羅をまとい、紅裳をひるがえし、髪をつかねて帽子をかぶり、脚は長靴でかため、肥馬に騎って野を駆けるという風俗を、空海は驚きをもって眺めたにちがいない。
空海は生涯不犯とされたが、そのことは女性への関心が薄かったということにはならず、むしろかれほどそれをはげしく内蔵していた者もまれではなかったかと思われる。
花弁に粘液をふくんだようなその文章の独特の装飾性といい、男女の愛縛を菩薩の位であるとする理趣経をもって密教の主要経典にしたあたりといい、かれをもって枯淡の人ということはできないであろう。かれは性の具体的世界にこそ泥まなかったにせよ、泥む以上の執拗さをもってその世界を昇華させ、その昇華作業こそ即身成仏の道であるとした男だけに、胡旋女をみて、見ることによって胡旋女とかかわってゆく自分の想念、透明歓喜にまで抽象化する作業を、人混みのなかで私かに、内面の奥で、演じていたかのようにおもえる。

空海の風景での中でも少しメンタル的で、他と異なる記述であるがこのあたりが宗学者と司馬遼太郎で異なる主題となるところかもしれない。
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