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空海 5章

空白の7年の間に空海がいずこにいたかは定かではないがのちに弟子によってかかれる「遺告」集があり、それによると四国阿波の大滝嶽や土佐室戸埼を訪れている。とくに室戸埼(今の室戸岬)には今も空海の修行した洞窟があり中に入り洞口を見ると水平線をはさみ空と海が見えるそうだ。残念ながら過日遍路八十八か所24番最御崎寺を訪れた時(2011年3月!なんと東日本震災の月)にはそこまで行かなかった。

空海は大学において華厳経を学び、そして悩んだ。一個の塵に小宇宙が宿るという世界把握はこの経からはじまった。華厳経では万物は相互にその自己のなかに一切の他者を含む。また相互に無限に関係しあい、円融無礙(完全に融け合っていて、いかなるさまたげもないこと)に旋回しあっている、と説かれる。
遣唐使で入唐するにあたり空海の得度時期については諸説があり、真言宗系の説によると宗祖ということも影響あるのだろうか20歳ころに得度となり、「空海の風景」や上山春平氏空海」は遣唐使船にのる前31歳となっている。
いわば国の遣わす使節には資格がいるので急きょ得度をしたということが事実のようだ。「空海の風景」によると日本は西暦600年に遣隋使を送って以来、隋朝へ四度、唐朝へは空海らの第16次遣唐使が出発する(西暦804年)まで十五度使節を送っていた。平均すると十年に一度となる。
ものの本によると遣唐使往復生還率は人員にし75%程度とのこと。4人に1人25%が帰ってこないという確率。この危険比率は山岳遭難よりもはるかに高く、また宇宙での遭難よりも桁違いに高い。またちなみにアメリカで航空機に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.0009%とのこと。
そんなことで遣唐使に選ばれる栄誉を回避する人も少なからずいたようだ。しかし空海は一日千秋の思いで20年振りの遣唐使船をまった。第15次の遣唐使船が779年、最後の第17次遣唐使船が838年でいずれも20年以上間隔があいている。その20年に一度という機会に遭遇し、804年7月空海は第16次遣唐使船に乗り列島最南端福江島を7月6日にたった。恐れていたように中国沿岸まで三千里空海らの乗った16次遣唐使の4船のうち2隻は遭難(うち1隻は行方不明、1隻の乗員は後日助けられた)空海ののった第1船は目的地を大いに外れ34日間漂流し福州長渓県赤岸鎮(現在の福建省霞浦県赤岸鎮)についた。

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赤岸鎮の「鎮」とは要塞のこと。赤岸鎮ではこの町の鎮将(責任者)に会って日本からの遣唐使である旨を伝えたが、この離れた地で日本とか倭という国名が知れ渡っているわけではなかった。また持参したはずの遣唐使としての印符は遭難した第二船にあったのでいわばビザのない旅行者でもあった。そして赤岸鎮の役人からは州都福州へゆくように云われ、彼らが福州に着くのは10月3日であった。当地でこの16次遣唐使船の遣唐大使:藤原葛野麻呂が自身の署名入りの文書を差し出した。しかし彼の文章は受理されなかった。葛野麻呂は門閥の子とはいえ遣唐大使に選ばれるだけに文章にも唐音にも自信があったであろうだけに一層落胆した。窮した葛野麻呂は空海に代筆を依頼する。「空海の風景」では遣唐使船に同乗していた橘逸勢(注)が無名の得度したばかりの空海を推挙したことも考えられるとしている。ここで空海は名文「大使、福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」を記することになる。
注 くしくも「三筆」は嵯峨天皇空海橘逸勢となっている。

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