紙つぶて 細く永く

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そして加藤周一

いったん、今日という日には何かを記さなければと考えたが、そんなものに付き合わされてもいやだなという感覚もあり、そして以下加藤周一です。

信念または偏見、または価値について
私は狂信主義を好まない。また特定の価値を信じて勇気ある人間を尊敬しない。価値について私は相対主義者であり、特定の価値を信じて疑わないのは、おそらく歴史と社会についてのまた人間の生理・心理学的機構についての、情報の不足、無知の結果だろうとさえ、考えている。たしかに勇気は、私の、また多くの人の、持ちあわせることの少い性質である。勇気を出すことは、むずかしい。しかしむずかしいことが、必ずしも値うちのあることではない。
 鴎外は、生涯を通じて、信じることのできる哲学には遂に出合わなかった、といったことがある。そこまでのところで、私は鴎外に賛成する。普遍的な価値の体系を、合理的に基礎づけることのできるような理屈は、どこにもなかろう、と思う。人は常に、合理的に基礎づけることのできない信念から出発するのである。その信念は、おそらく、歴史的・社会的・生理的・心理的諸条件の複雑な相互作用から生まれたものである。たとえていえば、多くの変数を含む関数のようなものである。関数の形はわからない。(マルクスや、フロイトは、変数を一つに絞って、関数の形を定めようとした人たちである)
 そこで鴎外は、世間に行われている価値を、あたかもそれが動かすことのできない価値である「かのように」、尊敬して暮らしてゆく他に、さしあたり生き方はなかろう、と結論した。その結論には、私は賛成できない。もしすべての価値が相対的であるとすれば、生きてゆくためには何らかの基準を、価値である「かのように」みなす必要があるだろう。しかしそのことから、その基準が、「世間に行われている価値」でなければならぬという理屈は、出てこない。全く逆に、「世間に行われている価値」の全面的な否定を、価値である「かのように」みなしても、理屈のすじは通るはずである。価値の相対性は、価値である「かのような」ものによって解決されるのではなく、価値である「かのような」ものの相対性に、移されるに過ぎない。
 生きてゆくかぎり、私は、成立の事情のあきらかでない私自身の信念から、出発するほかはない。同じことは、私以外の、また殊に私の属する団体(たとえば日本国、その中産階級など)以外の、誰にも通用する。したがって私は、私の信念をまもるために、私自身が他人を殺すことを正当化できない。中産階級は労働者の犠牲において繁栄することを、日本帝国主義は他民族を隷属させることを、正当化できないだろう。
 またそのこととも関連して、「弱きを援け、強きを挫く」というところまでは到底ゆかぬが少なくとも私は世の中の「強き者」を好まない。「強き者」は、総じて、自己の信念から導き出した結論を、「弱き者」に押しつける傾向が著しいからである。親が子に対し、男が女に対し、教師が学生に対し、特権階級が人民に対し、日本帝国主義朝鮮半島に対し、アメリカ帝国主義が日本に対し・・・私自身が教師であり、いくらか特権的な階級に属し、強大な日本帝国の国民であるから、そのかぎりにおいては、私は必ずしも私自身を好まないのである。
 しかしそのために私が不幸なのではない。私は、私自身を好まぬときに不幸になるほど、私自身を重んじてはいない。自分自身をそれほど重んじるためには、おそらく私以外の周囲の世界に対する私の関心があまりに強すぎるからであろう。関心の内容は、単に、好奇心だけでなく、また愛着でもある。その対象は、必ずしも、私有の品物ではない。おそ旅から旅へ暮し、私有の品物を容易に携帯することができない環境に慣れたからでもあろう。
 私の愛着の対象は、たとえば、落葉松の林の匂いであり、夏の雲の輝きである。また京都の白壁の築地にあたる夕陽、殷の銅器の緑色に錆びた表面、鴎外の史伝の散文、プロヴァンスの丘のラヴァンドの匂い・・・しかし殊に特定の個人の小さな行為、さりげない言葉、表情の微妙なかげり、そういうものと、その人の全体である。
 私のなし得るだろうことのなかで、どういうことに私は価値をおくか、天下の人民の幸いは、たとえ願っても、私の成し難いところである。またおそらく一人の人間を生涯にわたって幸福にすることも不可能であろう。私は辛うじて日本語の作文に、みずから、いくつかの価値をおく。またきわめて限られた個人の、限られた時間に、何らかの幸いをもたらすことができれば、そのことにも、価値をおく。このような理想は、まことに雄大でない。しかし、無知に勇気ずけられ、あいまいな言葉に鼓舞されて、雄大な理想を説くのは、私の仕事ではない。
 好信不好学其蔽也賊
「私の立場さしあたりー信念について」1973年1月 朝日新聞

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REMEMBER3.11