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夕陽妾語 一九八八年の想い出

 「一九八八年の想い出」 加藤周一「夕陽妾語」より

一九八八年の暮れ、消えない想出が三つ私の心のなかに生きている。その一つは、「ペレストロイカ」のモスクワである。そのことにはすでに触れた。
 もう一つは、野坂昭如原作(一九六七)、高畑勲監督のアニメーション映画『火垂るの墓』(一九八八)のなかに出てくる四歳の女の子である。一九四五年六月、神戸の空襲で焼け出されて、母を失った十四歳の兄と四歳の妹が、酉宮の親類の家に身を寄せるが、冷たく扱われ、近郊の山の横穴で二人だけの生活を始める。七輪に火をおこして粥をたいたり、ほたるを集めたり、死んだほたるの墓をつくったり、海辺の砂浜を走ったり-そのほとんど牧歌的な二人だけの生活のなかで、女の子が飛んだり跳ねたりしながら全身でよろこびをあらわし、食べものを探しに行った兄が帰って来ると駈けよって抱きつく。
 ついに食べものがなくなって、敗戦直後に、まず妹が栄養失調で死に、ついで兄が倒れるのだが、女の子は死ぬ前に、兄がもってきてくれた西瓜を食べ、「おいしい」とつぶやき、「兄ちゃん、おおきに」と言って眼を閉じる。私にはその四歳の少女の姿が、どうしても忘れられない。この世の中でいちばん確かなものは、少女が笑ったり、駈けだしたりするときの「生きるよろこび」であり、いちばん不確かなものは、彼女を殺したいくさを正当化するようなすべての理屈だろう、と私は思う。
 かつて「聖戦」を正当化するためには、さまざまの理屈があった。「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」、「悠久の大義」や「近代の超克」、「神ながらの道」やその他一ダースばかりの壮大で漠然とした観念。そういうものがあったし、これからもあるだろう。それは時代と共に流行し、忘れられ、またあらためて流行する。しかしそういうもののすべては、四歳の女の子の一瞬の笑顔の百分の一にも値しない。映画を見ながら私はそう思い、溢れてくる涙に閉口したが、それは私が涙もろいということだけではなかったろう、と今にして私は考える。
 『火垂るの墓』の少女の「生きるよろこび一は、単に動物的なものではなかった。そうではなくて、環境の変化を予測する能力の限界、またそれに適応する能力の限界を十分に意識し、兄との間につくりだした信頼と愛情の関係を通して、またその関係を通してのみ、いっぱいに感じることのできるよろこびであった。しかしそのほかにわれわれが人生を肯定するより根源的な理由があり得るだろうか。生きているのはよいことだ、ともし言うことができるとすれば、つまるところ、そういうよろこびの可能性が人間にあるからではなかろうか。この少女の生命の破壊は、われわれ自身の人生の意味の破壊にほかならない。だからいくさは、決定的によくないのである。

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さらにもう一つ私にとって忘れ難い八八年の出来事は、七十人の著名な米国人-元国務長官や元国防長官や元大統領顧問、有名な大学の学長、ケナンガルブレイスというような人々-が『ニュー・ヨークータイムズ』紙(一九八八年十月二十六日)に出した意見広告「原則の再確認A Reaffirmation of Principle」である。その短い本文は、「われわれが語るのは、アメリカ市民としてであり、自由主義的伝統Liberal Traditionの再確認を望む市民としてである」という一行をもって始まる。自由主義liberalismの精神は、アメリカ革命、独立宣言、憲法およびその修正七ヵ条に浸透していたといい、「そこに具体化された原則は、世界の多くの人々の尊敬をよびさました」という。すなわちその文章の冒頭の一節は、アメリカの「伝統」と「世界の多くの人々
の尊敬」とを、正当にも結びつけていた。現に世界の自由主義者のなかで、アメリカの独立宣言と憲法を尊敬をもって、意識したことのない人は少ないだろうし、たとえば、フランスの大革命もアメリカ革命と無縁ではなかった。
 その文章を読んだときに、私はあらためて太平洋の両岸での政治的伝統を考えた。米国での用語法に従えば、「リベラル」という語は、日本や欧州での「自由主義的」という意味に加えて「進歩的」という意味を伴う。その「自由主義進歩主義」の原則は、米国の「伝統」であり、同時に米国以外の国民にも尊敬をよびさますような普遍性をもっていた。その「自由圭義的進歩主義」という言葉が、レーガン政権のもとで悪い意味を帯びるように変質したとき、米国には伝統の名の下にそのことに抗議する七十人の人々がいたのである。
日本の政治的伝統は、どこまでさかのぼることができるか。どこまでさかのぼれば、目本の伝統的原則が同時に普遍的原則であったということができるか。徳川時代の政治思想と体制が、日本以外のどの国民の尊敬をよびさましたわけでもないだろう。明治憲法に体現されていた原則もまた、日本の外での妥当性を、その起草者自身さえおそらく考えていなかったものだろう。現行の日本国憲法は、普遍的原則にもとづく。いくさと軍備を放棄した第九条は、ほかにほとんど例がなく、多くの外国人によって非現実的とされ、一部の人々に支持されているにすぎない。しかしそれが原則として他国に通用し得ない、というわけではない。その意味で、明治憲法と異なる。
 しかし日本国憲法の歴史は、まだ半世紀に及ばない。これが「伝統」になるかどうかは、今後の問題である。もしなれば、日本でも伝統的原則の普遍性について語ることができるだろう。もしならなければ、日本の政治的伝統は地方的特殊的であり、普遍的な原則とは結びつかないだろう。いずれにしても、さしあたり憲法の精神は伝統になり切っていないから、それをふみにじるような傾向が、次第に強まってきても、日本の元外務大臣・元防衛庁長官・多くの大学の学長・多くの新聞人と作家と学者が、連名で、伝統の名の下に、それに抗議することができないのであり、それが米国と日本との大きなちがいの一つである。両国のちがいは、債務国か債権国か、ということだけではない。
私はときどき米国の新聞を読む。たまたまかの意見広告に出合って、以上のような感想を抱き、
その感想をながく忘れることができないだろう、と考えている。        (88・12・19)

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