紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は旧Blog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

知識による正義と表現による正義

昨夜の阿部は久しぶりに4番らしい仕事をしたとある。今季は81試合で打率2割4分7厘、10本塁打、33打点。並以下の成績である。しかし選手間の評価は高い、前回のWBCでも阿部のサムライジャパンといわれた。後半の活躍を期待しよう。
そして甲子園の季節がやってきた。以前にも書いたことがある(http://greengreengrass.hatenadiary.jp/entry/2011/08/13/093549
が、参加申し込みをすれば出場できる府県大会では見るからに拙い試合をすることが多い。そのような試合の詳報を見せ(読ます目的だろうが見ることしかできない)られても中身を確認しようとすら思えない。主催する某A新聞では高校野球にとっての「教育の一面」に則った「公平な記事作成」という縛りから多くの高校の記事を載せようとする。そのため技術についての記事ではなく「善意行動の記事」が溢れる結果となる。
また甲子園のすばらしさ?が溢れる季節ともなった。
そして野球で驚くのは同じくA新聞に載った覚せい剤使用経験の経緯から球界に復帰できない江夏を殿堂入り表彰に投票するか否かを相談するその感覚である。「僕も殿堂入り表彰の幹事をしているが、ノミネートを提案して、会議にかけることはできる。・・多くの皆さんの意見を聞かせていただければ、と思う。(編集委員)」 
自分で決めるのが筋です。
私は思う。現役引退後の覚せい剤が「江夏の21球」を生んだのだろうか。現役引退後の不祥事で現役時代の成績が取り消されるのだろうか?
彼は当然その成績を正しく判断され評価されるべきである。

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毎朝某地方自治体へ出勤する職員たちと同じバス停で待つのであるが、勤務に合わせ同じような時間に大勢が並ぶ、これがまたきれいに2列を成す。バス停のことであるから歩道の幅程度の人数しかならべない。彼らは歩道いっぱいになっても2列を崩さない。結果どうなるか歩行者が通れなくなるのである。
そしてバスが来ると当然脇にあふれた通勤者も乗ることになる。バスに乗ってもほとんどの人が座れないのであるから、結果列を成してならんだことは意味を持たなくなる。通勤列車のように同じ列車にのる列と異なり、バス停で2列に並ぶことはほとんど意味がないのである。ただバス停へ到着した順に乗るというのがマナーであろう。
数人なら列を成して並ぶことに意味はあるが、乗るバスが異なる可能性がありまた数十人にもなるような多数がならぶ状況では歩道いっぱいにならぶことは意味がない。彼らは状況を読むことができないのである。

国際政治を学ぶ上からは集団的自衛権に異をとなえない、「国際関係には力によって支えられているという側面がつきまとうだけに、国際関係における軍事力の役割を無視することは賢明ではない」と藤原帰一氏はいう。
 しかし下記のようにも述べている。
「忘れてならないのは、2003年にイラクを攻撃しなければ、このような状況は生まれなかったことだ。
フセイン政権が極度の独裁政権であり、その抑圧の下でイラク国民が苦しめられてきたことは事実である。
だが、その政権が倒された後の統治の破綻と内戦の勃発を前にするとき、イラク介入は必要だった、正しかったと主張する根拠はどこにあるだろうか。
フセイン政権は倒すべきだというかつての常識の誤りは、無残なまでに露呈されたというほかはない。

 どこが間違っていたのだろう。東西冷戦の終結を受けて、民主主義と資本主義の勝利は誰の目にも明らかとなっていた。
冷戦のもとでは西側の軍事介入がソ連との戦争にエスカレートする可能性があったが、その冷戦が終わった以上、
地域紛争に軍事介入を行っても世界戦争となる可能性は小さい。
そのような西側諸国の軍事的優位を背景として、国際社会の軍事介入によって平和と民主主義を実現できるという過信が生まれた」

戦争とは虚偽の体系である。(カールクラウス)
彼らの言葉(態度)では知識による正義と表現による正義が乖離しているのである。

 

おどろきの中国 (講談社現代新書)

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