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少年の視野 母・祖母・親 その3

少年の視野

今年正月に96歳で亡くなった母には、義理の姉がいた。
母の伴侶の兄の嫁である。年の差が5歳。その姉がつい先日亡くなった。齢103歳である。
100歳の時には市からも表彰され耳が遠くなった以外は健康な「老人」であった。
若くして自ら事業を営み活発な「婦人」であった伯母はよく歩いた。
化粧品の入ったかばんをもち顧客のところへ向かう。
昔のことで交通機関は市電や市バス降りてから歩く。とにかく歩いた。
やさしい語り口で丁寧に物事を教えてくれる伯母は、少しもその権威をひけらかさなかった。
私が中学に入ったころ相対する人間を意識することから、それまでの言葉遣いでなく敬語を多用するようになった。
今でもその時期に伯母と会話したことがふと思い浮かんでくる。黒板五郎と純の会話の如きであった。
事業を栄え、娘に後を任せようとしたときにその娘がガンを患いついに亡くなった。
しばらくは悲嘆にくれていた伯母であったが持ち前の進士の気性もあって穏やかな晩年を過ごした。
伯母の子は娘が二人であった。(私の育った男家系ではなく女家系であった)
すでに下の娘も嫁いでいたので、しばらく伯母は広い家に一人で暮らしを続けた。
その晩年には私も庭を挟んで隣に住んでいたことから、その伯母が窓を明けて私の連れ合いを呼ぶ声がよく聞こえた。その時も今も、呼び声、その応対がなんと好ましいと思えたことだろう。
私の連れ合いも行くといっていながら行けなくて、とうとうその伯母の最期に出会えなかった。

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つらつらと思い浮かべるとまさしく人生いろいろと思える。
ガンで亡くなった伯母の娘(従姉妹)は結婚してこれからという時であった。
その主人は最期まで想像を絶する介護をした。「丸山ワクチン」を買い求め東京へ足繁く通った。
よいと思える病院があれば転院をさせた。
すぐ近くにいた私たちゆえに気苦労をかけまいという心からかその内実を明らかにせず、
ガンであったこと多額の医療費をかけたことがわかったのも従姉妹の葬儀のあとであった。

人は親しい人の死によって何を思うか。
多くの人は親しい人を看取った後、それでは私を看取ってくれるのは誰、と思いはじめる。
家系を思うのである。
「私はあなたにこれだけの遺産を残すからお墓を守って」
「私には子がいないのでお墓を守るために養子を望む」
このような形で家系を存続させる希望が出てくる。
種の保存法則で生きながらえるものすべてが未来を託す個体を待ち望む。

この正月に、一人で暮らす友人がやってきてお墓参りをしたいという。
同行しそのお墓に参った。最寄り駅で降り歩くこと十数分、広い公園の中に納骨堂があった。
日もよかったのだろう、多くの人が訪れ、それこそ線香が絶えることなく焚かれていた。
最期はガンとなり病院に治療を断られ、その中で古くからの友人が奔走し、
辛うじて生活保護を受け一人で逝ったと聞く。
友人は果物と亡くなった彼が好きであったのだろう煙草を供え深く頭を垂れた。
ここを望んで多くの人が祭られている大きな納骨堂は堂々とした構えであった。
そのあと彼と二人ささやかな席を設けて時を過ごした。

そのように若くして歩き続けた元気な伯母と、
小児マヒを患い歩くことの苦手で和裁に親しんだ篭りがちな母が共に長寿であったのは
ある意味不思議なことなのかもしれない。
それにしても生まれてから96年(歳)と生まれてから102年(歳)の人生をほぼ同じ時期に終えたのは
何かの縁があったのだろうか?

少年の視野 母・祖母・親 その2 - 紙つぶて 細く永く