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少年の視野 母・祖母・親 その2

少年の視野

母は3姉妹の長女であった。大正に生まれ結果的に3姉妹の中で一番長寿であった。
自らが3姉妹であったからか、その子供が3人兄弟であっても、「女の子」が欲しいとは思ってなかったようだ。
そうして3兄弟は多数が男の家庭で育った。
公務員であった父と教育者の娘であった母は、年の差が10歳あった。
私は父が42歳の時に生まれた。
42歳は男の厄年ということで厄年に生まれた子は一度捨てねばならないという慣習から、私は親戚であった隣家の前に「捨てられた」ようである。
そして、隣にいた私の祖母が拾い上げ無事戻ったという顛末であった。
明治の生まれであった父は、その齢からか68歳の時に生まれた初孫を殊の外かわいがった。
3兄弟であった私。そして私の子が3兄弟となった。2世代続いた3兄弟である。
それでも父母とくに母は女の子が欲しいというそぶりは見せなかった。
当時父母の家から少し離れて住んでいた私は、祖父に手を引かれた孫が祖父の家に連れて行かれるのをよく最寄り駅のホームから見送った。
寂しいのかホームに消える前に、振り返る子。その様子を見てこちらも寂しかった。
祖父の家に行くことを寂しく思うのではなく楽しんで欲しい気持ちであった。
祖父は孫に、木馬や椅子特に木製の遊具をよく買ってくれた。

その父が最晩年新幹線に乗せると幼い孫一人を連れ出かけた。
そして新幹線の車中で軽い脳梗塞を発症したらしい。
辛うじて元の駅まで戻った祖父は駅前からタクシーに乗ったが、唾液をこぼしながら言葉が出ない状態だった。
訝しがる運転手に幼い孫が怪しげながら住所を伝え、やっとの思いで自宅までたどり着いた。
母が事あるごとに自慢する逸話である。
その父はチェルノブイリ原発事故の年「1986年」に亡くなった。
飲み始めると一升でも飲んでしまう一升酒。それほど日本酒が好きだった父の死因は肝硬変あった。
医者に止められても隠れてタバコを吸い、それほど肝臓を甚振った。

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一方母は幼いころの小児マヒから中耳炎、乳がんさらに心筋梗塞と「私は病気の百貨店」と絶えず自負していた。
いまから思えば父に比べ母は孫と出かけたという記憶が余りない。
心底は、男兄弟を余り快く思っていなかったのかも知れない。
10年ほど前に曾孫ができた。身体もそう動かせなくなっていた状況でもあり、曾孫が訪れても一緒に遊んでいる情景があまり思い浮かばない。
80を過ぎてからの曾孫はそれこそ異星人だったのだろうか。

数年前に喧嘩仲間でもあった妹を亡くしてからは残されて一人になったことを嘆きながら同居する兄に介護されるようになった。動けなくなった母を連れて兄は買い求めた軽四輪で母縁の地金沢を訪れた。
我慢できる時間が過ぎると休憩を挟み、長時間かかって金沢を幾度か訪れた。
兄宅を訪れるたびに動けなくなる母。最期はベッドでの食事が残された少ない楽しみだったのだろう。
いつもは嗜まないビールを少し味わいながら、それでも動かせる口からは料理の味付けにたいする一言が出てきた。
「そのお吸い物は味が濃い」

いつもながら毎回葬儀の大変さを思います。
当然のことながら、各地で行われる葬儀はその土地の人々の思いが感じられて
大切な故人を偲ぶという行為も様々な手法があるのだとおもいます。
私にとって今回の葬儀は様々な思いから良きにつけ悪しきにつけひとしおでした。
母の最期に近く起き上がれない身体をベッドに横たえ、しかしじっと私を見つめる視線を感じたこともありました。
何かを告げたかったのか、咎めたかったのか忘れられない視線でした。
思い出といえば、やはり金沢21世紀美術館を訪れたことがもっとも印象に残ります。
彼女の生まれ育った地が心を騒がせたのでしょうか。
最期になりましたが、蔡家としてそして毎回遠路からの訪問ご苦労様でした。

少年の視野 母・祖母・親 その1 - 紙つぶて 細く永く

少年の視野 母・祖母・親 その3 - 紙つぶて 細く永く

 

 

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