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戦後史の中の丸山真男1

簡単にいえば(略)、徳川時代儒学の発展に内在する可能性を荻生徂徠に、明治初期の思想が含む可能性を福沢諭吉に見て、その可能性=「近代的」主体の成立の可能性との対比において、儒者イデオロギー集団(闇斎学派 下記注)の機能、または明治以降について狂信的超国家主義に至るところの近代的日本の思想史を検討し、その検討の過程に外来思想の「日本化」の方向があきらかにあらわれてくるのをみる。
その方向は執拗に一定しているから-そのことに私は賛成する-そこには日本社会の側から働く特定方向の力が想定されるだろう。
その力の主体を丸山は「古層」または「basso Ostinato(執拗低音)」とよび、「古層」の性質をつきとめるために歴史をさかのぼって、操作に好都合な資料としての日本の神話の分析に至る。(略)
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要するに丸山真男の学問的な仕事は、日本の思想・思考の習慣・世界観の特徴・個性とは何かという問題を中心として展開した。
戦後五十年の歴史的な発展という観点からみれば、学問の水準ではなく経験の水準において、敗戦と占領を「第二の開国」と受けとった経験が決定的であろう。言論の自由と外国文献の流入。1945年以前にはそれはなかった。津田左右吉の起訴にも象徴されるように、日本史の学問的な、すなわち批判的客観的な研究は、ほとんど不可能であった。
「第二の開国」は同時に日本ファッシズム-その定義には立ち入らない-からの「解放」を意味する。未来への出発というほとんど感覚的な経験がそこにあり、それは当時広く共有されていた。
未来へ向かって出発するためには、過去に対して誰もが立場をはっきりさせなければならない。対外的な十五年戦争とは何であったか。その国内的な条件、日本ファッシズムとは何であったか。
そのとき丸山真男が書いたのが、「超国家主義の論理と心理」である。その反響が大きかったのは、それが単に個人的な経験の報告ではなく、また単に超国家主義の経済的条件の分析ではなく、誰もが経験したおどろくべき狂信的な言説の客観的な観察と合理的な分析であったからである。(略)
超国家主義の論理と心理」は、思想の領域において、日本ファッシズムの内側からの最初の意識化であり、最初の自己理解であり、戦後日本の知的な第一歩であった。その意味で戦後日本は丸山真男からはじまったのである。
-加藤周一[夕陽妄語第二集輯]-

注 山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日(1619年1月24日) - 天和2年9月16日(1682年10月16日))は、江戸前期の儒者朱子学者・神道家・思想家である。闇斎の提唱した朱子学を、崎門学または闇斎学という。その思想の独自性は、湯武放伐を否定した点にあり、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。-WikiPediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E9%97%87%E6%96%8E-
-[湯武放伐]参照http://greengrass.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/09/septenberdream_.html-