紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は旧Blog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

箴言-支配と服従2-

支配関係には、その社会における物質的精神的価値を支配者が占有し、被支配者のそれへの参与を能う限り排除するという要素が必然に随伴する。
その排除を有効に遂行するためにこそ支配者は物理的強制手段(軍備・警察)を組織化するのである。
被支配者との間に、文字通り空間的距離(両者の居住地の隔離から始まって、食卓の区別
-Am Tisch scheiden sich die Klassen(注1)という諺がドイツにある-にいたる)を設定し、異なった身分間の交通を禁止する。
両者の「交通」を遮断するために信仰・儀礼を区別し、道徳名誉観念を支配者が独占し甚だしきは言語を全く異にせしめる。
(注1)ひとつの食卓が彼我を分ける
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現実の政治的支配は純粋の支配関係(上述の主人-奴隷関係)のみでは成り立たない。
奴隷の主人に対する服従においては、服従の自発性は零あるいは零に近い程度を出ないから、そこには本来服従行為があるというよりも服従という事実状態があるにとどまる。
主人の鞭が鈍り、或いは鎖が解ける程度に応じて、奴隷のサボタージュの程度はいわば物理的必然として増大するのである。
従って、労働の生産性という点では、奴隷労働ほど非能率的なものはない。
生産力の発展がある段階に達すると、大抵の場合、奴隷制がその社会の支配的な生産様式たることを止めて、賦役地代の形にせよ現物地代の形にせよ、必要労働部分と余剰労働部分との帰属関係がヨリ客観化されるような形態に移行するのはそのためである。

いわんや政治的社会において治者と被治者との間に、このような緊張関係しか存在しない場合には、被治者を抑圧するために治者の維持しなければならぬ権力機構は徒に巨大となるだけでなく、対内関係と並んで一切の政治的社会の存在根拠たる対外防衛の面において著しい脆弱性と危険性をはらむことになる。
(つまり)一切の政治的社会は制度的にも精神構造的にもこうした最小限度の「デモクラシー」なくしては存続しえないのである。
丸山真男-「政治的なるもの」とその世界-