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<近代の克服> 「転向論にかえて」第8章

本題に復帰します。

少し京都学派の歴史・国家哲学の前提的了解を見る。

田辺元「歴史的現実」から。「善い国家は善い個人を通してのみある」
「その実例は遠い所に求めなくても我々の生まれたこの日本を考えてみると」「天皇の御位置は単に民族の支配者、種族の首長に止まってゐらせられるのではない。一君万民・君民一体といふ言葉が表してゐる様に、個人は国家の統一の中で自発的な生命を発揮する様に不可分的に組織され生かされて居る」
「国家の統制と個人の自発性とが直接に結合統一されて居る」
「そういふ国家の理念を御体現あらせられてゐるのが天皇である」「それで日本の文化は排他的・閉鎖的ではなく統一が開放的な意味を持ってゐる」「八紘一宇という言葉の意味かと考えます。」

かの近代の超克座談会における京都学派の発言の方向性は田辺元によって既に定位されていた。
われわれは当人たちの本音がどうであったかによって免罪しようというのではない。
如何なる理由づけのもとに「世界史の哲学」として「近代を超克」する理念として思念され得たかという事情である。
ヘーゲル哲学のうちにプロイセン国家権力の御用イデオロギーをみるのが正当であるのと同じ意味において、確かに正鵠を射ているのであろう。
西田幾多郎世界新秩序原理」では、
「我が国の八紘為宇の理念とは、昔、ペルシャ戦争に於いてギリシャ勝利が今日までのヨーロッパ世界の文化発展の方向を決定したと云わ得るが如く、今日の東亜戦争は後世の世界史に於いて一つの方向を決定するものであろう」
と謳いあげる

(現在から)省みれば、往時の「近代の超克」論は、明治以来の欧化主義とその帰結に対する、"自己批判"的な心情を契機にして存立したのであった。
「近代の超克」というテーゼは戦時下日本の知識層にとって-大衆にとっての「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」に照応する-呪文的な統一スローガンであったと言われ得るにしてもこの「マジナイ語」(竹内好)が一世を風靡した機縁はハプニングに類するものであった。
河上のモチーフからいえば"聖戦の敢行と知識人の覚悟"とでもいった標題のほうがより相応しかったとさえ言えよう。

日本はどうなるか、今できつつある新しい世界に対して、日本はどういふ意味を持たせられてゐるか、どういふ意味を実現しなければならないか、即ち世界歴史の上における日本の使命は何かといふ点になると、西洋のどのやうな思想家からも無論教えられる訳には行かない。
その為には日本人が日本人の頭で考へなければならない。:高坂正顕
明治の文明開化から大正、昭和を経て来た日本人とは・・・神を失った日本人であります。
近代をのりこえる力ありとすれば、神への信だといふ他にない。神々の再誕こそが現代思想の中心問題だと思う。:亀井勝一郎
(近代の超克)は、政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克なのであり思想
においては自由主義の超克を意味する。:鈴木成高

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これらは欧米における当時の近代超克論と比較するとき著しい特徴と認めうる事実であるが、戦前・戦時のわが邦における近代超克論者たちの場合-転向左翼出身の比重が高く、さなきだに一旦マルクス主義の磁力圏を潜ってきた者が多かった関係で-超克さるべき与件としての「近代」を表象する際"資本主義"ということがほぼ共通の含意となっていた。
論者たちの謂う「近代の超克」は果たして資本主義的な生産手段の私的所有制そのものの止揚を自覚的に含意していたかを問うてみるとき、既に相当部分が脱落して了う。
それはたかだか古典的な産業資本主義ないし古典的な近代帝国主義の原理の止揚にすぎなかった。
そのイデーは兎も角として、国家独占資本主義的再編制、東亜ブロック経済の確立という即自的な歴史的趨向を追認しつつその飾り衣装になったと評せざるを得ない。
「近代の超克」論を理論的に代表したのは何といっても京都学派の哲学者たちであった。
例えばハイデッガーなどの近代哲学の性格づけやその批判に接したとき、彼らが西田哲学を以って既に近代知の地平を超えるものと目したとしても謂れのないことではない。
彼等がヨーロッパ流の「有」の哲学に対して東洋流の「無」の哲学を対置して考え、古今の既成哲学を超える新哲学と目した。
斯くして抽象的・一般的な哲学上の範式としては東洋的無、いな西田的無の原理による西洋=近代哲学の超克という志向が京都学派の態度設定を決する所以となった。