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<近代の克服> 「転向論にかえて」第6章

昭和初期の常識では戦争というものは謂わば自然法則的な必然であって特定の一国が世界支配を達成するまでは、永久に繰返されるものと思い込まれていた。
恒久平和を確立し、全世界の安寧と秩序を確保するためには日本が戦争に勝ち抜き、最終戦に勝ち残ることが絶対の要件として、極く一部のマルクス主義的左翼等を除いて、"知識人"たると"大衆"たるとを問わず、日本国民の共通の了解事項であったと言えよう。
その中で、日本の軍部が満州事変支那事変のごとき公然たる侵略・武断政策をとりながら、日支の連携とか五族協和とか尤もらしい理屈をかかげた背景には当人たちにとっては建前ならざる"理想と確信"があった。
日本のアジア主義者たちは孫文や彼の直系の同志たちとのあいだに親誼と大理想での一致があるものと信じていたむきがある。
中国に対して対支二十一か条の帝国主義的要求をつきつけたりしておりながら自己矛盾も甚だしい。

竹内好氏の余りに有名な論稿(注a)のなかで「「近代の超克」はいわば、日本近代史のアポリア(注b)の凝縮であった。
復古と維新尊王と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。問題の提出はこの時点では正しかった。それだけ知識人の関心も集めたのである」
「「近代の超克」の最大の遺産は、それが戦争とファシズムイデオロギーであったことにはなくて、戦争とファシズムイデオロギーにすらなりえなかったこと、思想形成を志して思想喪失を結果したことにある」
(注a)竹内好「近代の超克」筑摩叢書 「竹内好全集」筑摩書房 第八巻に収録
(注b)哲学的難題または困惑の状態のこと

京都学派の座談会は「開戦の詔勅を完璧に説明」する「見事な図式」を供し得た。
支那のほうでは日本の行動を欧米と同じ帝国主義的侵略と誤り解釈するやうだが、僕は絶対さうは解釈できぬと思ふ」
「日本の対支行動が帝国主義的に誤り見られる外形をとって現れたといふことは、当時の世界秩序から歴史的に制約されてゐた」
「大東亜の建設といふやうな或る意味で帝国主義といふものを理念的に克服した行動に、必然的に繋がって来てゐる」
「僕も大体同様の考へで、過去の日支関係をジャスティファするものが、今日の大東亜戦のイデーだと思ふ」
(第二回座談会「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」高山岩男西谷啓治両氏のやりとり)
京都学派の論客たちは、日本の対支行動が帝国主義的と見られるべきでない"理由"として日本が支那の分割に反対したという事実を持ち出す。
当時における"日本国民"は東亜諸民族の「盟主」意識をもち、また使命感のごときをもっていた。
1929年恐慌を境とした世界経済のブロック化が日本経済に深刻な危機をもたらし、円ブロックを形成するためには東亜への進出が"歴史的要請"であったかぎり、いわゆる「広域経済圏」、日本の「生命圏」ということが意識されずにはおかなかった。
日本の欧米に対する経済的・軍事的危機は単に日本一国の危機ならざる"東亜の危機"というかたちで意識された。
一方では中国民族主義が一定の高まりをみせており、それは「日貨排斥」というかたちをとって、日本帝国主義の中国進出に対して大衆的に強力な抵抗を試みる状況になっていた。
このような中で、ミネルヴァの梟よろしく飛び立ったのが「文学界」および「中央公論」の「近代の超克論」であった。
日米開戦という現実を前にして、しかも従前インテリたちが恐れていた敗北の危惧を吹き払うかのような緒戦の"大勝利"に狂喜する雰囲気のなかで、戦争と国体とを合理化し、日本が対米戦争に勝利し「万邦に各々その所を得しめる」(注c)
ことによって万事めでたく終わろうというわけである。
昭和17年時点における「近代の超克」論は、かくして「今や約束されるに至った世界の指導民族たる日本」が「世界に提示すべき新原理」を自認し、説教を垂れるものとなった。
(注c)三国同盟が成った時の詔勅の「万邦各々そのところを得しめ、兆民その堵に安んぜしむ」、という記載