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<近代の克服> 「転向論にかえて」第5章

前回は戦時下における「近代の超克」論を位置づけた。今回はその中で「近衛新体制」を担ぎ上げた諸潮流の中で三木清にスポットをあてる。
京都学派の「近代の超克」論には三木清の哲学上の営為のインパクトひいては影響が認められる。

当時における「勤労者大衆」の「社会的感情」からすれば、たしかに「皇室を民族的統一の中心」と信憑するイデオロギーが根付いていたため、転向左翼の或る者、ならびに右翼社民にあっては、"天皇の下での社会主義"が志向された。
それが「近代の超克」論に屈折した翳りを投ずる所以となった。

三木清京都帝国大学で西田幾太郎に師事し1927年に上京してのち教壇(法政大学文学部哲学科主任教授)に立つかたわらマルクス主義に関わる論文・著作を矢継ぎ早に発表し3・15,4・16事件の大弾圧のさなかいよいよ左傾化し、1930年には共産党資金をカンパした嫌疑で逮捕投獄された。
31年の満州事変の勃発を契機として日本の時代状況が暗転していく中で、「不安の思想」を新しいヒューマニズムによって超克することを試み(「不安の思想とその超克」など)、時局に対する評論活動を積極的に展開する。
さらには、「岩波講座哲学」、「岩波新書」などの立ち上げに尽力するなど文化人としても活躍。
37年に日本が中国との全面戦争に突入したことを背景として、三木は近衛文麿政策集団である「昭和研究会」に参加。
そこで指導的な役割を果し、東亜共同体論を展開していくこととなる。これが転向といわれる。
(しかし、1945年6月12日、治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留される。
戦争終結後の1945年9月26日、豊多摩拘置所で疥癬(カイセン)の悪化により獄死。
享年48歳。この三木の非業の死をきっかけとしてGHQは治安維持法を撤廃したとされている。
残された遺稿は『親鸞』であった)-一部・京都大学文学研究科文学部HP参照-

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三木清支那事変の意義付けから始める。
支那事変の世界史的意義は、空間的に見れば、東亜の統一を実現することによって世界の統一を可能ならしめるところにある」
現代社会のうちに階級の問題が存在するといふのは事実であり眼を覆うことは許されない。
しかしながら階級の問題は階級闘争主義に依ることなく、却って協同主義の立場に於いて新しい解決の仕方を見出すべきである。」
三木は階級の協同を説いているのだろうか?否である。
結局は階級なるものの存在、そして階級ないし固定的な身分なるものの廃止を一応は説いている。
しかし、三木がカムフラージュしつつ共産主義を説いているのではない。ここに転向者の論理が働いていることは否めない。
英米仏の自由主義個人主義ソ連共産主義的普遍主義、独伊の全体主義手的民族主義、これら諸原理を超える新しい原理を打ち出すことが「日本人の責務」だという。
或る意味では孫文三民主義をも超克しなければならないという意想から協同主義が案出される。
社会観においては「個人主義全体主義とを止揚する協同主義」
歴史観においては「観念史観唯物史観」との相補的対立を超える新しい史観を標榜する。

結局のところ三木清の「協同主義の哲学」にあっては、超克さるべき「近代」とその思想的地平が十全に対自化されておらずそれに代わるべき新思想がついに積極的な定式を見ないままに終わっている、といわざるをえない。