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最近読んだある本から1

1960年は安保闘争の年でもあれば、三池闘争の年でもあった。
三池闘争は日本資本主義が石炭中心から石油中心へとエネルギー政策を変換しようとすることへの抵抗であった。
同じ年に東京大学工学部にはじめて原子力工学科が設置された。
1958年に原子力にむけてアクセルを踏んだのは、時の総理大臣岸信介であった。

原子力技術はそれ自体平和利用も兵器としての利用も共に可能である。どちらに用いるかは政策であり国家意志の問題である。平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる。
[核兵器保有の]潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題などについて、国際の場における発言力を高めることが出来る」(岸信介回顧録・廣済堂出版

1958年には防衛庁技術研究所技官兼防衛研修所教官の肩書きを持つ新妻清一の手になる「誘導弾と核兵器」という書物が書かれている。
著者は戦前に東京大学理学部物理学科を出てのち、旧日本軍そして戦後は防衛庁の研究機関で一貫して軍事科学研究に従事した人物であり、この書物もミサイル、IRBM、そして核兵器の原理、構造、効果、防御等かなり専門的に詳述したものである。

岸は、1959年3月21日に参議院予算委員会で、あらためて「防衛用小型核兵器は合憲」と主張し、のちに「平和的利用だといっても一朝ことあるときにこれを軍事目的に使用できないというものではない」(岸信介「最近の国際情勢」1967年5月26日国際善隣倶楽部の講演記録)と語っている。

日本の多くの科学者が戦争への「反省」として語ったのは、米国との「科学戦」に敗北した自分たちの力不足であった。そのような眼でみれば、最先端の科学にもとづき幾多の困難を克服し核エネルギーの「実用化」を達成したこと(マンハッタン計画)は、まさしく「人類の偉業」にして「科学技術の精華」に映るのも不思議は無い。
1954年に出版された物理学者福田信之の書にはなんともノー天気に書かれている。
ウラニウム・パイル(炉)のばく大な熱を利用する原子力発電所は近いうちに実現されるかもしれません。
台風のエネルギーが約10の15乗カロリーであるのに対し、1個の原子爆弾の放出する熱量はその百分の一にも達します。台風の進路を人間の手で左右することは夢でなくなりました」
この書が出版されたのはビキニ環礁におけるアメリカの核実験の死の灰で日本の漁船員が被爆したわずか5ヵ月後の1954年8月であり、しかも「原爆・水爆とビキニ死の灰まで」という標題だから、なおさら驚きである。

核燃料の再処理とは、使用済み核燃料から、ともに核分裂性のプルトニウム239と残っているウラン235を抽出することをいい、
それにたいして使用済み核燃料をそのまま廃棄物にすることを直接処理という。
つまり再処理およびウラン濃縮はともに核燃料の材料(核分裂性物質)の生産に直結している。
ジャーナリスト鈴木真奈美の書には「政財界の利権とか科学者の夢とか、その他いろいろな要素が絡み合ってのことだろうが、それらだけでは説明できないほど、日本は核分裂性物質を製造する権利にこだわっている」(鈴木真奈美「核大国化する日本 平和利用と核武装論」平凡社新書
NPT(核拡散防止条約)が発効する前年の1969年に外務省の非公式組織である外交政策企画委員会によって作成された「わが国の外交政策大綱」には
核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面、核兵器は保有しない措置をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保有するとともに、これに対する掣肘を受けないように配慮する」(吉岡斉「原発と日本の未来」岩波書店他)

1992年11月29日の「朝日新聞」朝刊の一面には「日本の外交力の裏づけとして、核武装選択の可能性を捨ててしまわないほうがいい。保有能力は持つが、当面、政策として持たないという形でいく。そのためにもプルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」という外務省幹部の談話が記されている。国際恫喝クラブに仲間入りを果たすという岸信介の路線はここにも生きている。

日本には、何基もの原発を稼動させることで原爆の材料となるプルトニウムを作り続け、かなりの量を蓄積し、ウラン濃縮技術を所有し、あまつさえ人工衛星打ち上げに何度も成功している。その気になれば何発もの核弾頭とその運搬手段としての長距離弾道ミサイルを作り出すことができるということである。
今年の「朝日新聞」7月21日の記事では日本は国内に核兵器1250発分に相当する10トンのプルトニウム、世界で5番目の量を貯めこんでいるとされる。

自民党政権憲法面においても制約はないとの立場を維持してきた。
2002年5月31日、小泉内閣官房長官福田康夫核兵器について「法理論的にいえば、専守防衛を守るなら持っていけないという理屈にならない」と確認している。
山本義隆「福島の原発事故をめぐって」みすず書房よりー