紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

風たちぬ


そして、やがて、戦争が来た。
日中戦争が拡大し、太平洋戦争がそれに続く。
東京では誰も彼も「超憂国主義者」に変身し、巷には軍歌があふれていた。
しかし、浅間山麓には、碓氷峠の彼方には、別天地が展けていた。
そこでは春にこぶしの花が咲き、秋には澄んだ青空に赤とんぼが舞い、
常に変わらぬ日常的時間がゆっくりと流れていた。
堀辰雄はそこで、追分や旧軽井沢のから松林のなかの小さな家に暮らしていて、
旅へでることも稀であった。
浅間の高原は東京から限りなく遠かったが、それ以上に堀辰雄その人の世界は軍靴の響きから遠かった。

私は医学部へ進み戦時中から戦後へかけて東京での生活は次第に忙しくなって行った。
私は毎年の夏を追分で過ごす習慣を廃さなかった。
そして、堀辰雄を知り、折にふれてその書斎を訪ね、医者として相談にあずかったり
読者としての文学を聞いたりした。
結核は一進一退しながらゆるやかに進行していた。
文学と文学者についての話は古今東西にわたって尽きることがなかった。

今にして思えば、私の知っていた堀辰雄は、世間に広く知られていた「堀辰雄」とはかなりちがう。
世間に知られていたのは、軍国主義と敗戦の嵐から脱れて、
その異国趣味を旧軽井沢の小さなカトリック協会に託し
高原の西風の優しい肌触りを抒情的な散文に綴った詩人である。
私が知っていたのは、戦時中も戦後も、日本国中が1945年8月を境としてガラリと変わったときに、
その態度を少しも変えなかった文学者である。
それは趣味の問題ではなく、感覚の微妙さの問題でなく、
「芸術のための芸術」というような文学観の問題でさえもない。
たしかに堀辰雄は、戦う文学者ではなかった。
かっての同人誌「驢馬」の仲間中野重治は、「お前は赤ままの花を歌うな」という否定形で赤ままの花を歌った。
堀辰雄は直接に軽井沢の秋草や雪の上のうさぎの足跡を語り、またそれのみを語った。
それは国家権力への挑戦ではなかったが、
権力の介入に対する抵抗の、強固にして抜き難い一種の形式であった、と私は思う。

書斎はいつも清潔で、書棚はきちんと整理されていた。
そこには日本の古代史や内外の画集や文学者の全集などがあり、
机上にはモリアックのフランス語の小説やリルケのドイツ語の詩集が置かれていた。
そして主人公は、
大和路の風景のなかで土地の神々が渡来したばかりの仏教と出会い新しい小説の構想を語って倦むことがなかった。
私が東京の文壇から遠く離れたところにも「文学」のあることを知ったのは、
浅間山麓の堀辰雄の書斎においてである。

それからしばらく経って、私は信州よりも、軽井沢や追分よりも、はるかに遠い国へ旅立ち、数年が過ぎた。
再び日本国へ帰ってきたときに、堀辰雄はもう居なかった。
-「高原好日」加藤周一-

Put a candle in the window
'Cause I feel I've got to move
Oh I'm going, going
I'll be coming home soon
'Long as I can see the light
Pack my bag and git.git movin'
'Cause I'm bound to drift around
Oh I'm gone, gone
You don't have to worry no
'Long as I can see the light
Guess I've got that ole
Travelin' bone
'Cause this feelin'
Won't leave me alone
But I won't
Won't be losin' my way, no, no
'Long as I can see the light
Yeah
Yeah
Yeah
Oh, yeah
Put a candle in the window
'Cause I feel I've got to move
Oh I'm going, going
I'll be coming home soon
Long as I can see the light
Oh, Long as I can see the light
Long as I can see the light
Long as I can see the light
Long as I can see the light
-[Long As I Can See The Light]Creedence Clearwater Revival-