紙つぶて 細く永く

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科学と文学

体についても、統計的手法はしばしば使われます。
たとえば、ある病気の人間なり動物なりに薬をあたえる。
そうすると、薬を服用した側の状況は変わるわけですが、
そういうことを一回観察しても、どうしてそれが変わったのか簡単にわからない。
その問題も非常に複雑になるわけです。
そのときにどうしたら体内の変化の状況についての正確な知識を獲得できるかというと、
何人かの同じ病気の患者を連れてきて、一定の薬を投与する。
その中の何人が治るか、何人が治らないかうをみるわけです。
 他方同じ病気の同じぐらいの数の患者を集めて、
今度は薬を投与しないとどういう状態になるかをみる。それを対照群というわけです。
そして実験群(薬を与えるグループ)と対照群(薬を与えないグループ)とで
結果がどうなったかを、比較する。
比較したときに、薬を与えた側では非常に高い率で、病気が治り、
対照群の方では非常に高い率で治らないとすれば、そのときに、またそのときにのみ、
薬の効果があったろうと考えるわけです。
 それ以外に薬の効果を確定する方法はとてもむずかしい。
全くないわけではありませんが、一般的には困難です。

世の中には、自分自身とか、母親とか、兄貴とか、こういう薬を飲んだら、
あるいはこういう治療を受けたら難病が治った、だからこの薬、または治療法は、素晴しい、
という人が多いようです。
しかし、そういう体験談のほとんどすべては、科学的にいえば、一例を観察しているにすぎません。
そのことから、統計的には、どういう結論も引きだすこともできない。

科学的な命題は、原則としてはすべて試すことができる。
だれがやっても同じ結果がでるということになったときにはじめて科学的な命題となる。
 宇宙の全体は、大昔神が創ったという命題は、科学的じゃない。試すことができないからです。
しかし、科学はそれを否定もしない。「神が自然を創った」というのは科学的ではない、
ということの意味は、科学によって創造が否定されるということではなくて、
科学によっては肯定も否定もされないということです。
試し可能性のない命題については、科学は、それを否定もしないし、肯定もしない。
加藤周一「知る・信じる・感じる」-