紙つぶて 細く永く

右の「読者になる」ボタンをクリックし読者なっていただくと記事更新時にお知らせが届きます。

}

高校

教育の崩壊

溶解したエリート 近ごろ騒がれる日本のエリート諸氏の経歴はざっとこうなる。 話題のエリート群像 おもな地位 生年 高校入学 高校 高校卒 出身大学 学部 寺脇 研 文科省大臣官房審議官 1952 1967 ラサール高校 1970 東京大学 法学部 和泉 洋人 総理大臣補佐官 1…

ある公立高等学校の変遷10 「学校」上映中止

かって鴨沂高校では各種の文化的な催しや講演会が開催されその中にヘレンケラーの講演会というものも行われていた。そんな高校での下記記事がどうも気になるので続き。 「京都・鴨沂高」毎日新聞1994年記事 京郡府立鴨沂高校(京都市上京区、小谷嘉明校…

ある公立高等学校の変遷 資料2 高校三原則と進学率

京都府の高校三原則に関わった人達とその時代そして進学率を一覧にした 京都府知事 府教委委員長 府教育長 京都市長 年 学区制 京都府 進学率 全国 進学率 順位 木村惇 1947/4-1950/4 神戸正雄 1947/4-1950/1 1947 新制高校発足 - - 牧野虎次 1948/11-1949/1…

ある公立高等学校の変遷 資料1 多くが抱く誤解

京都の公立高校進学率について通学区に対する誤解は多い。何人かの教師からも聞いたが、小学区制で通学区が変わる、すなわち地区によって大学進学率が変わっているのではないか?という疑問だ。しかし数字を拾った結果は小学区で通学区の変化に連動するよう…

ある公立高等学校の変遷9 変節といってもいい変化

教育界の鴨沂高校にたいする評価は、「鴨沂高校、あっあそこは特別ですね」という学校歴史博物館学芸員の発言に代表される。 学校としての出自や歴史を鼻にかけることもしかり、また一方下記のような「民主教育」を通じて独特の校風を築いたこともあるのだろ…

ある公立高等学校の変遷8 1970年になにがあったか

1970年に何があったか 前回まで京都市の公立高校13校と東京日比谷高校の歴史を眺めた。そして1960年代と1970年代の間で京都大学進学率の大きな下落が見えてきた。 京都大学合格者(サンデー毎日その他より集計) 東大合格 鴨沂 洛東 洛北 紫野…

ある公立高等学校の変遷7 東京都日比谷高校

東京都・日比谷高校の場合 1968年以前の東京都立日比谷高等学校の通学区は第一学区で東京都千代田区・港区・品川区・大田区が通学エリアだった。この学区内には「日比谷高校」「九段高校」「一橋高校」「城南高校」「三田高校」「赤坂高校」「小山台高校…

ある公立高等学校の変遷6 進学率から見えるもの

前回は1950-1995年の都道府県別進学率を見た。全体でいうならば京都府の教育は進学率という面では高い成果が見られた。次にはより細かく、主要高校の大学進学率について見てみる。下記に資料が入手できた1965年以降の各高校京都大学合格者を掲…

ある公立高等学校の変遷5 大学進学率

前回「ある公立高等学校の変遷4」まで、1950年から1975年の京都市域の公立高校の通学区変遷を調べた。 それぞれの学校でより良い教育、その結果としての高い人格形成を求めて教育制度改革が行われてきた。 私もその中を漂流し、不安にかられ、(あと…

ある公立高等学校の変遷4 1965・75年の通学区

1965(昭和40)年の通学区(町エリアで通学区分割があるところについては地図上は不正確) 1963年に京都市立塔南高等学校が創立され京都市教育委員会は独自に京都市立高校の単独制移行を実施、塔南高校には伏見高校・洛陽高校から普通科コースが移…

ある公立高等学校の変遷3 1955年の通学区

1949年から1952(昭和24-27)年の通学区を見てきたが、1953年から1954年の資料がない。*次に1955年の全体通学区が以下になる。図中の実線は1950年から現在までの鉄道路線。京都市内には市電が走っている。 1953年に洛東高…

ある公立高等学校の変遷2 1950-52年の高校通学区

かって「15の春は泣かせない」というキャッチコピーの高校通学区制度があった。住居地によって通学できる複数の公立高校で入学者を振り分けられる高校入試制度が総合選抜制度。しかし京都では西の文部省ともいわれた京都蜷川府政でさらに厳格に、居住地か…

ある公立高等学校の変遷1 1949年の高校通学区

母校の同窓会が開かれることになりその歴史を調べようと思った。しかし調べ始めると、京都というところは教育史的に見て日本全国でも大いなる存在となっていることが改めて分かった。(一部新しく判明したところ修正)特に小学区制・総合制・男女教学という…