紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

空海

空海を仕上げるぞとの意気込み

久し振りに神護寺へいった。例によって京都一周トレイルの保津峡から清滝、高雄のコースだ。先週歩く予定をしていたが、あいにくの雨で、伊根に変更した。 伊根 - 紙つぶて 細く永く いつもの北山?杉並木 今回は少し錦繍を入れてみた。 *残念ながら遅れた…

空海10章 高貴寺 室生寺

空海は長安に着き、西明寺に入った。居室に案内された。その部屋の先住者は日本からの僧で名を永忠(参照)といった。永忠は在唐30年という。歴史書「元亨釈書」にその名がでてくるという。宝亀の初め(770年代)に入唐留学し延暦の季に遣唐使とともに…

空海9章 伝持の八祖としての空海

そして空海は金剛頂経系ならびに大日経系の密教体系を継いだ。以下の中で実在しない大日如来・金剛薩埵を除いた、龍猛以後8人の祖師が真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった「伝持の八祖」といわれる。 (釈迦が生まれたのが紀元前564年といわ…

空海8章 宗学者と司馬遼太郎

空海は長安に入った。時は804年12月23日 暮れも押し迫ったころである。そして明けて翌805年1月23日に唐の徳宗皇帝が亡くなり28日太子が践祚し次の皇帝順宗となった。この行事で遣唐大使藤原葛野麻呂一行は多忙を極めた。そして遣唐大使は2月…

空海 7章 乗り越える文章の力

中国に渡る第16次遣唐使船第一船に空海、第二船に最澄が乗っていた。困難を極めた遣唐使船、今回の船も4隻の内2隻が行方不明となり、目的地にたどり着いたのは第二船のみであった。空海の第一船は南方に流され福州長渓県赤岸鎮へ着いた。当地の観察処置…

空海 6章 大使福州の観察使に與るがための書

為大使與福州観察使書(大使福州の観察使に與るがための書) 賀能啓。高山澹黙。禽獣不告労。而投帰。深水不言。魚龍不憚倦。而逐赴。賀能啓す。高山澹黙なれども、禽獣労を告げずして投り帰く、深水言はざれども、魚龍倦むことを憚らずして逐ひ赴く。 故能…

高雄神護寺

今週のお題「お気に入りの紅葉スポット」11月5日の新聞に紅葉の見ごろとして嵯峨天龍寺・高雄神護寺が上がっていた。「毎日が日曜日」の身分、早速行かねばと翌6日連れ合いの休みと重なって京都一周トレイルで神護寺へ出かけた。予定はJR保津峡駅から…

空海 5章

空白の7年の間に空海がいずこにいたかは定かではないがのちに弟子によってかかれる「遺告」集があり、それによると四国阿波の大滝嶽や土佐室戸埼を訪れている。とくに室戸埼(今の室戸岬)には今も空海の修行した洞窟があり中に入り洞口を見ると水平線をは…

空海 4章

三教指帰を著した24歳から遣唐使船に乗船した31歳まで空白の7年間空海がいずこにいたのかは定かでない。この空白期間を多くの識者は後世の空海にとってのいわば仕込み期間と考える。仏典を手元に置き、知的懊悩を噴出させ時には知的憤懣をぶつける表現…

空海 3章

空海の父は佐伯直田公、「空海の風景」によると佐伯とは「サヘグ」であり、さわぐに通ずるという。景行記によると英雄的な王子が征討軍をひきいて東を征し、かれらを多数捕虜にして畿内にもどった。かれらはひとまず伊勢神宮におかれたが昼夜「喧り嘩みて出…

空海 2章

空海の生まれ育ったところははっきりしないのだという。空海にとって、叔父にあたる阿刀大足が学問の師匠であった。阿刀大足は空海の父佐伯直田公の弟であったが、空海の母の実家である阿刀家を継いでいた。阿刀大足は都で桓武天皇の皇子、伊予親王の侍講で…

空海 1章

過日四国遍路を巡った時に深く考えないで「南無大師遍照金剛」と何回も唱えた。しかしなぜ「南無大師遍照金剛」で意味は?という疑問がなくはなかった。また終えた時に、1200年の彼方まで遍路行脚としてこんなにも慕う人がいる影響力はなぜだというのが…