今週のお題「得意?料理」
REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」
朝日新聞記事による時系列検証
民進党分裂に至る政治劇は、代表の前原誠司が9月17日午前、東京都知事の小池百合子に送った1通の携帯メールから始まった。 この日の朝、朝日新聞などが臨時国会冒頭での衆院解散の可能性を大きく報じていた。「近々、お目にかかれれば幸いです」。 京都市の自宅で新聞を精読した前原は、意を決して小池にメールを打った。 前原が小池にメールを送っていたころ、ネットメディア会社代表の上杉隆は、民進で総合選挙対策本部長代行を務めていた玄葉光一郎に接触していた。 上杉は元衆院議員の故鳩山邦夫の秘書を務め、小池とは1994年の新進党結党以来の付き合いだった。
当時、小池側近の衆院議員だった若狭勝らが新党結党の準備を進めていたが、小池自身は距離をおいていた。 ところが、解散報道を受けて、小池も新党代表として国政に関与することを模索しはじめている――。上杉の玄葉への説明はこんな内容だった。
「若狭新党なら恐れるに足らずだが、小池新党なら話は違う」。前原は玄葉から報告を受け、合流に向けた調整を水面下で進めることを決めた。
前原には、昨年の参院選で一定の成果を上げた共産党、自由党、社民党との野党共闘路線の継続も、選択肢としてあった。
だが、民進内では、共産との連携に反発する勢力が離党の機をうかがっていた。政党支持率も1桁でジリ貧だった。
(A)リーダーとしてのミス一つ 何故ならどちらの路線が正解だったかは後で明らかになっている。
9月26日深夜のことだ。 前日の25日には、安倍晋三が28日召集の臨時国会冒頭で衆院を解散すると表明。
小池も新党「希望の党」を立ち上げて、自ら代表に就くと発表していた。
新党との合流協議を急ぐ前原が上杉の携帯電話を鳴らし、急きょ設定された秘密会談。 前原は民進の100億円超の資金や党職員の提供を申し出たが、小池は断った。
(B)真実か怪しい のちに政策協定書9項「希望の党の公認候補になるに当たり、党に資金提供をすること」なんてことが出てくる。
そして、注文をつけた。 「全員(の合流)は困る。私は、憲法と安全保障は絶対に譲れません」 憲法改正と安保政策は、小池の保守政治家としての生命線だ。
「護憲の方はご遠慮願いたい」と言う小池に、前原は応じた。 「それは当たり前。うちにも護憲なんているかどうか……」
(C)リーダーとしてのミス二つ 所属員を把握できていない。「偽メール事件」しかりこの人は何回もその前例がある。思考力が及ばないのかも。
小池は、民進の体質が新党に継承されることを懸念していた。 民進は、これまでも自民から旧社会党出身者まで抱える「寄り合い所帯」ぶりが、党の一体感を損なってきた。 護憲政党ではないが、いざ党内で議論を始めれば対立が表面化しかねない。
小池の思いを推し量った上杉が旧民主党の「排除の論理」を例に出した。 鳩山由紀夫と菅直人が1996年に民主党を結党した際、看板のかけ替えとの批判を受けないために一部のメンバーの参加を拒んだ。 上杉は「『三権の長』経験者を排除するのはどうですか」と話したという。
(D)この時と手法が異なるより大きな問題は下記の「政策協定書」だ。そしてこれらの提案と上記「全員(の合流)は困る」を受けてからの下記議員総会での説明は明らかに、虚偽だ。
9月28日民進党両院議員総会
政権交代可能な政治の一翼をめざしてきた野党第1党を分裂させた小池の「排除」発言の原点は、この夜の密談にあった。 小池側にも、政治経験の豊かな有力な候補を抱えていないという事情があった。 交渉でネックになったのが、小選挙区の候補者調整だった。前原側は約300の小選挙区を「民進200、新党100」の割合で割り振るよう要求。 一方の小池側は「150、150」と主張し、平行線をたどった。 それでも、前原は民進全員での合流をめざそうとした。(ほら詭弁が出てきた)
小選挙区であぶれたとしても比例区がある。小池と、何度か電話でやりとりした。 小池は「『第2民進党』になったら、両方沈んじゃうわよ」と言って、全員の受け入れには難色を示し続けた。 互いに警戒していた。
前原は「小池側にハシゴを外されること」を恐れていた。小池も「民進に抱きつかれたら困る」(小池側近)と考えていた。 「これから会見します」。小池は同25日の記者会見で希望の党の立ち上げを表明する直前、前原に電話を入れた。 記者からの質問に答える形で、前原との連携についても話すという。 前原は民進幹部らに「小池さんが民進との合流について会見する」と連絡した。しかし、小池の言葉は前原たちにとって甘いものではなかった。 「前原代表とは日本新党以来の知り合いで、コミュニケーションは取れると思う。 でも、党を丸ごとというよりかは、政策にご同意いただけるのかどうかが必要になってくる。さもなければ組織をつくる意味がない」
「排除リスト」と「踏み絵」の流出
野合と見られることを嫌った小池と、多くの民進出身者を合流させることをめざした前原。思惑が異なる2人の要求を満たす「しかけ」が政策協定書だった。小池色を前面に打ち出しつつ、民進の主張とも矛盾がない書面を民進出身者らと交わすことで、双方の心配を一挙に解消するはずだった。
(E)冷静に考えればわかる。これは立候補者の意志に反して虚偽の署名をするしかない解決法で、選良の選挙に際しこのような手法がまかり通るわけはない。かりに署名しても選挙後に大量の造反が出ることは目に見えている。
ところが、しかけが完成する前に、事態は思わぬ方向に転がり始める。 前原は、希望への合流方針の了承を取り付けた9月28日の民進の両院議員総会で、安全保障法制を「憲法違反」と確認。(ああ二枚舌)
「安倍政権を止めなければならない」「我々の理想の社会を実現するため、大きなプラットフォームを我々自身がつくる」と説明していた。 翌29日午前。前原と小池は東京・新宿の京王プラザホテルで会談し、公認候補の調整と政策のすり合わせを進めることを確認した。 最初に記者団の前に姿を見せた前原は「(民進出身者を)全員公認したいという思いは(小池に)伝わっている」と強調した。(さらに二枚舌)
一方の小池は記者団
(この記者団の中にフリージャナリスト横田一氏がいた。彼が「さらさら」発言を引き出した。その後彼は、何の理由か「小池新党」側から無視され続けている)
に、「全員を受け入れることはさらさらない」と述べ、前原の発言を一蹴した。 両者の思惑は隔たったままなのに、政権交代可能な勢力としての希望への期待ばかりが高まっていた。 小池の「排除」発言が飛び出したのは、その日午後。小池周辺は「前原の『抱きつき』に、(小池は)いらだっていた」と言う。
さらに間を置かず、「三権の長」経験者に枝野幸男ら十数人の名前を加えた「排除リスト」が永田町に出回った。
前原も、小池も関知していない出所不明の文書。(しらぬは亭主ばかりなり)
前原は周辺に「フィクションだ」と怒りをあらわにしたが、民進出身者たちは浮足だった。 若狭が民進との協議を経て完成させる手はずだった政策協定書のたたき台も流出した。 民進が一貫して反対してきた安保法について「基本的に容認する」と記されていたため、民進に宗旨替えを迫る「踏み絵」との受け止めが広がった。 「排除」と「踏み絵」に反発した枝野が新党「立憲民主党」を立ち上げた。 無所属での立候補に踏み切る議員も相次いだ。「排除」どころでなくなり、「踏み絵」も民進側との協議を経て穏当な内容
(「現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法に則り適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する」これのどこが穏当かな)
になったが、分裂への流れは押しとどめようがなかった。 前原は「排除リストだとか踏み絵だとか、われわれが『本物ではない』と言い続けても、現実に物事が決まらないなかで疑心暗鬼が高まってしまった」と振り返った。 前原の決断を了とした連合会長の神津里季生(りきお)は「政策と公認の『門』を狭めた小池さん周辺の罪は極めて重い」と言った。 小池は衆院選投開票日の10月22日、出張先のパリで「政党たるもの、政策が一致するのは当然の話だと考えているが、言葉の選び方は注意するべきだった」と総括した。 だが、その後は多くを語らないまま、今月14日、党の代表を辞し、自ら劇場の幕を引いた。
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この時系列で進んだ。9月28日の「民進党両院議員総会」の前後をしっかり把握しないと・・やはり検証の結果は投票者の肌感覚は当を得ていたということになるなあ。
REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」
1949年から1952(昭和24-27)年の通学区を見てきたが、1953年から1954年の資料がない。
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次に1955年の全体通学区が以下になる。
図中の実線は1950年から現在までの鉄道路線。京都市内には市電が走っている。
1953年に洛東高校が創立され、以下現在の左京区川東地区、東山区の一部、山科区伏見区東部にあたる地区が洛東高校の通学区となった。
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ついで各学校の通学区を見て行こう。
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この辺りで高校の変遷を整理しておこう。
戦後の教育制度改革で一旦旧制の以下中学校は下記の様に新制の各高等学校として発足された。
(後日追記)この新制高校設置に伴う困難は想像以上のものだった。下記参照
誰が学校を建てたのか その3 「文部官僚の号泣」 | 甲斐良治の「食と農の底力!」
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しかし急きょ設置された上記高等学校も、新制中学の校舎不足に伴っての校舎明け渡しやGHQ京都軍政部からの指示もあり、上記多くの高等学校は再編された。変遷図については以下の図参照
公立高校変遷図 京都府立編.pdf - Google ドライブ
公立高校変遷図 京都市立編.pdf - Google ドライブ
1948年の公立高校は以下30校
洛北高等学校・鴨沂高等学校・洛南高等学校・山城高等学校・双陵高等学校・桃山高等学校・柏原高等学校・伏見商業高等学校・桃山女子高等学校・伏見高等学校・桂高等学校 ・朱雀高等学校・二条高等学校・城南高等学校・鳥羽高等学校・堀川高等学校・中京高等学校・城陽高等学校・城巽商業高等学校・専修高等学校・西京高等学校・西陣商業高等学校 ・御池商業高等学校・伏見工業高等学校・四条商業高等学校・深草工業高等学校・洛陽工業高等学校・九条工業高等学校・美術高等学校・藤森高等学校
そして1949年4月には公立高校は以下の12校となった。
洛北高校(修正記載)・鴨沂高校・山城高校・朱雀高校・桃山高校・堀川高校・西京高校・日吉ヶ丘高校・洛陽高校・伏見高校・桂高校・城南高校
ある公立高等学校の変遷4 に進む1965・75年の通学区 - 紙つぶて 細く永く
ある公立高等学校の変遷2 に戻る1950-52年の高校通学区 - 紙つぶて 細く永く
REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」
かって「15の春は泣かせない」というキャッチコピーの高校通学区制度があった。
住居地によって通学できる複数の公立高校で入学者を振り分けられる高校入試制度が総合選抜制度。
しかし京都では西の文部省ともいわれた京都蜷川府政でさらに厳格に、居住地から通学できる高等学校は1校となる「小学区制」が1985年まで実施された。
その制度による新制高等学校発足1949年の京都市内高校通学区地図が以下の図。
各高校への通学区を色分けした。(醍醐地区は不明)
高校は市内に集中している。15才になる人口を小学校校区毎に分けて通学高校を分けている(図で色分けした)。地図中の高校名称は現在のもの。
そして翌1950年の通学区は以下に変更された。下図は全体図
混乱の中で1949(昭和24)年通学区を決定したが、1950年の通学区はさらに混乱し、1年、2年、3年でそれぞれことなる学校への通学ともなった。これは1年の時に通った高校と異なる高校に2年生として通学するということでもあり、市民保護者からかなりの苦情もでたようだ。
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1950(昭和25)年の京都市公立高校通学区
下図は1950年鴨沂高校と洛北高校にかかる通学区 洛北高校については戦後すぐ校舎を新制中学に明け渡し、鴨沂高校内に間借りをし両校合わせて3000名以上の生徒が昼夜の2部制授業で開校した。 そのため1949年には洛北高校通学区がなかった。1950年からは元の府立第一中学校舎となり洛北高校としての通学区となった。
下記グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。
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次に1950年山城高校・洛北高校の通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。
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こちらが1950年山城・嵯峨野・西京高校の通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。
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次に1950年桂・西京高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。
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1950年堀川・朱雀高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。
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そして1950年伏見・桃山高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。
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1951(昭和26)年は通学区変更がなかった。
1952(昭和27)年には混乱した通学区からの反省か全学年同じ通学区となった。
これ以降左京区北部久多や広河原、花脊が京都市内への通学区として組み入れられた。1952年は洛北高校の通学区となった。この距離では多分下宿しないと通えなかっただろう。
そのため高校入学を機に一家あげての離村等もあったようだ。1975年の調査による離村状況についての資料(坂口 慶治「京都市近郊山地における村化の機構と要因」以下URL )が詳しい。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/27/6/27_6_579/_pdf
京都市では、このような事情もふまえ小野郷地区と左京区北部地区(久多や広河原、花脊)から該当する高校へ通学する生徒向けとして、1968年に右京区花園に市の施設「北辰寮」が設けられた。(1995年に廃止 注1)
(注1)現在京都市では北辰寮廃止に伴い、花脊中学・宕蔭中学地区の生徒が市内に下宿する場合の補助金制度がある。下記参照
http://www.city.kyoto.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000184/184749/24hekiti.pdf
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1952(昭和27)年の京都市公立高校通学区
1952(昭和27)年鴨沂高校通学区 左京区南部と上京区の一部、それに山科区が加わった。
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1952(昭和27)年洛北高校通学区 左京区北部から中部
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1952(昭和27)年4月に京都市によって紫野高校が開設され通学区は以下となった。
1952(昭和27)紫野高校通学区 北区全般
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1952(昭和27)山城高校通学区 北区一部と右京区の一部
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1952(昭和27)嵯峨野高校の通学区も広大になっているが路線バスがある。
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1952(昭和27)朱雀高校通学区 中京区全般
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1952(昭和27)日吉ヶ丘高校通学区 東山区
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1952(昭和27)伏見高校通学区 下京区南部、南区東部、伏見区北部
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1952(昭和27)年洛陽高校通学区 下京区南部と南区
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1952(昭和27)年桂高校通学区 現在の西京区と南区の一部
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1952(昭和27)年桃山高校通学区 北部を除く伏見区
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出典:政府統計の総合窓口(e-Stat)(http://www.e-stat.go.jp/)
ある公立高等学校の変遷3 に進む1955年の通学区 - 紙つぶて 細く永く
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REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」
「10月27日、州議会による一方的な独立宣言に踏み切り、中央政府から解任されたプッチダモン前州首相は 「フランコ独裁以降、最悪の攻撃」と語り、歴史的な「恨み」の構図をラホイ首相と自分との関係になぞらえた。
州庁舎前のデモに加わっていた事務職の女性(22)は「曽祖父がカタルーニャ語を話したことで投獄された。
フランコ時代の圧政が繰り返されないためにも独立すべきだ」と語気を強める。
だが、私がバルセロナの街中を歩いて感じるのは必ずしも独立への熱気ではなかった。 むしろ、独立の是非をめぐって深まる社会の分断だった。
州議会では議員の過半数を独立派が占めていたが、最新の世論調査でも独立支持は49%にとどまる。
カタルーニャ語を母語とするのは州人口の約3~4割。 そんな現状にもかかわらず、独立派が主導する州の公教育ではすべての教科がカタルーニャ語で教えられ、 スペイン語の授業は週2、3時間だけしかない。」
(ヨーロッパ総局長・石合力)
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「カタルーニャ民族主義の専門家で、独立に反対する大学教授ハビエル・バライコアさん(54)は 「カタルーニャはフランコ時代も経済発展を続け、その当時も多くの人が彼を支持していた。
住民の迫害意識は、州のテレビのプロパガンダや公教育によって高まった面もある」と指摘する。
カタルーニャ民謡「鳥の歌」は、強い抵抗の意思をにじませて高音に向かう旋律と、半音で悲しげに下降する旋律を繰り返す。 フランコ政権下のスペインでの演奏を拒んだカタルーニャ生まれの大チェリスト、パブロ・カザルスが71年、 ニューヨークの国連大会議場で演奏。
「カタルーニャの鳥は『ピース(平和)』と鳴く」という演説とともに世界に知れ渡った。
異なる文化圏やジャンルの人々にこの曲を自由にアレンジしてもらう 「連歌・鳥の歌」プロジェクトを展開した作曲家の井上鑑(あきら)さんは「カタルーニャ人のたくましさと繊細さ、 他者の気持ちを察する心の機微が、この旋律に映し出されている」。
フランコ政権下で姿を消したかと思われたカタルーニャ語も、人々が日常生活で丁寧に使い、 公用語として子供たちに伝える努力を続け、歴史的な復活を遂げた。文学にも勢いがある」
(編集委員・吉田純子)
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同じ日に上記二つの文章が掲載された。一方は「カタルーニャ語を母語とするのは州人口の約3~4割。しかし独立派の教育ではすべての教科がカタルーニア語で教えられ」と説く。
もう一方は「フランコ政権下で姿を消したかと思われたカタルーニャ語」と説く。
どちらが真実を捉えているのだろう。歴史的経緯によって事実は異なる面をも見せる。私はフランコによるスペインの悲劇を少なからず知ったので、下記のようなさらなる一説に同意する。
参照:http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/kawakami.pdf
それにしても「鳥の歌」はいい
REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」
母校の同窓会が開かれることになりその歴史を調べようと思った。
しかし調べ始めると、京都というところは教育史的に見て日本全国でも大いなる存在となっていることが改めて分かった。(一部新しく判明したところ修正)
特に小学区制・総合制・男女教学という「高校三原則」を巡っては教育学的にも大変研究されているのだが、その評価を巡っては様々な意見がある。多くの府県が賛同し取り入れたが、結果巧く機能しないところが多く最後まで京都に残った。
そして行政文書を紐解くと、かねてから一般に解釈されている、京都府教育委員会は蜷川府政による「西の文部省」という評価が一面的には決めつけられないという気がしてきた。
それでも京都では先進的に高校通学区の「小学区制」が長い間堅持されてきた。
これはその小学区制を起点にして、進学との関係からながめてみる京都の公立高校の歴史的な流れである。
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1945年の敗戦を受けて旧制中学校が廃止され、新制高等学校が発足した。
京都府では高校の正式名称は全部高校ではなく「高等学校」となる。しかし以下では略して「高校」とする。
1948(昭和23)年に下記学校が廃止された。
同時に下記学校が新設された。
その後1949年までの1年ほどの間相当な混乱がおき、各校の分割あるいは統合や学校移転が行われた後に、1949(昭和24)年3月に京都府教育委員会から次のような文書が発表された。
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上記文章では、京都市内については、西京高等学校と鴨沂高等学校が検査会場となっている。
1949年当時京都市区域の高等学校は、鴨沂高校・山城高校・朱雀高校・桃山高校・堀川高校・西京高校・日吉ヶ丘高校・洛陽高校・伏見高校・桂高校の10校となっていた。また(このころにはこの10校に普通科が置かれていた)その普通科通学区は小学区制(居住地から通える公立高校は1校)でそのエリアは以下の図になる。
1948年4月に現在の左京区久多・花脊・大原・鞍馬地区等が京都市に編入された。間に合わなかったのか通学区にこれらの地区は掲載されていない。また右京区北部(旧京北町)は2005年の編入となる。
各校通学区を拡大すると。
主なエリアは現在の左京区南部と上京区の春日校区、北区上賀茂校区
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主なエリアは北区全般と右京区御室、宇多野、飛地は水尾地区
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1949年度朱雀高校(住所:中京区西ノ京式部町)の通学区
主なエリアは上京区と北区一部、中京区の一部
1949年度堀川高校(住所:中京区堀川錦小路上ル)の通学区
主なエリアは中京区から下京区
1949年度日吉ヶ丘高校(住所:東山区今熊野日吉町)の通学区
1949年度洛陽高校(住所:下京区唐橋大宮尻町)の通学区
主なエリアは下京区から南区全般
1949年度桂高校(住所:右京区川嶋三重町)の通学区
主なエリアは現在の西京区南部
1949年度伏見高校(住所:伏見区深草鈴塚町)の通学区
1949年度桃山高校(住所:伏見区桃山町毛利長門)城南高校の通学区
主なエリアは伏見区全般 旧久世郡となる一部(緑色)は城南高等学校通学区
羽束師(村)久我(村)1950(昭和25)年編入、淀(町)1957(昭和32)年編入、この区域は編入されるまで京都市外で城南高校が通学区。
注)現時点で1949年度醍醐地区の通学区は不明(近くであれば桃山高校か日吉ヶ丘高校)
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また京都府下についても下記通学区が決められていた。
高等学校通学区 | 城南高等学校 | 宇治郡、久世郡、綴喜郡 |
木津高等学校 | 相楽郡 | |
亀岡高等学校 | 南桑田郡 | |
北桑田高等学校 | 北桑田郡 | |
園部高等学校 | 船井郡、東梅本村、西梅本村、八木町、吉富村、富本村、新庄村、 麻気村、園部町、川辺村、世木村、五ケ荘村、胡麻郷村 |
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須知高等学校 | 船井郡の中、園部学区以外 | |
綾部高等学校 | 河鹿郡 | |
福知山高等学校 | 福知山市、天田郡 | |
河守高等学校 | 加佐郡(由良村、神崎村、八雲村、岡田下村を除く地区) | |
西舞鶴高等学校 | 舞鶴市(西舞鶴)、加佐郡(由良村、神崎村、八雲村、岡田下村) | |
東舞鶴高等学校 | 舞鶴市(西舞鶴以外の地区) | |
宮津高等学校 | 与謝郡 | |
峰山高等学校 | 中郡 | |
網野高等学校 | 竹野郡 | |
久美浜高等学校 | 熊野郡 |
参考資料:「京都府教育史」
出典:政府統計の総合窓口(e-Stat)(http://www.e-stat.go.jp/)
ある公立高等学校の変遷2に進む 1950-52年の高校通学区 - 紙つぶて 細く永く
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不断の努力「民主主義を守れ」
何十年も前のことだが、アルバイトで下請け4トントラックの横乗り助手をしていたことがある。このトラックの運転手はいわゆるひとり親方で自身の車を持ち込んで企業の配送を請け負うという仕事だ。まだ30才そこそこだったがディーゼル4トン車をすごく扱いなれていた。朝早くに集荷し、その荷物を数十キロはなれた所数か所に納品をするという仕事だった。この運転手(=師匠とよびたい)がすごく運転が「巧い」。スピードは決して速くないが、右左の視野も広く、周囲の状況に応じて自在に車を操る。多くの事を学んだ。
アクセルワークももちろん急発進などはしない、オートマチックではないがギヤチェンジを感じさせないシフト切り替えで、円弧を描くように徐々にスピードを上げ、そして余裕をもって徐々にスピードを落とし、信号停止をする。
あるとき一度、割り込みをされたことがあった。朝の早い時間で、出勤に急いでいたマイカーだったのだろう。そこで、この師匠が激怒した。急にスピードを上げ、マイカーに追いついた。そして片側2車線の国道でバトルが始まった。まず、師匠が幅寄せし、相手が逃げる。次に相手が幅寄せし、師匠がよける。この時は師匠が左車線、相手が右車線だったので相手に不利な状況だった。なぜかというと師匠は4トン車で高い運転席から右下(ほぼ真下)を見下ろし、相手ボディとの間隔を確認できる。しかし相手は助手席側なのでフェンダーミラーでの確認となる。でもこの運転手も巧かった。お互いに5センチくらいの感覚まで、くっつきははなれ離れては寄せというゲームが数キロは続いた。
結局、お互いに急ぐ立場で、接触もなく分かれた。
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公道を走っている運転手には2種類の運転手がいる。巧い運転手と、下手な運転手だ。これは初心者とベテランでもいい表せない、区分だ。
自身が巧い運転手か否かを知ることで、後ろに追いつかれたら横に避けるか、前方の車に追いつくように努力するか判断できる。
大半は横に避ける方が正しいと思う。スピード違反をしてでも早く行きたい車がいるのだ。横によけることが交通マナーの基本だと思う。
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そして問題は交通マナーを守らない車にどう対処するかということに尽きる。
車で走行しているということは他の運転手に直接声をかけられないということになる。チョット荷台から積み荷がはみ出ていますよ、ストップランプが切れていますよ、そして「すんません急ぐので先に行かせて」等々
昔は年間3万キロ程度車を運転していた。その経験から煽られるのはその原因を作っていないか?と自問することも必要。
運転経験から割り出したことは、車の運転中は前方6割後方4割(慣れれば前後双方で半々かな)の注意を払う、ということ。
友人が言った、「なぜ渋滞の先頭は軽トラックなの」
つまり後車の動向に充分注意を注ぐということだ。後ろを見ることで私より急ぎの車でないかとか、追突に対する注意、車間距離がないなら急ブレーキを踏めないなどを心掛けられる。
走行中に感じた交通マナーを守らない車は以下のような感じだ。
対向車線をハイビーム=ライトを上げたまま通過する車両、
それ以上に困るのは対向車線に車がいないときに後ろをハイビームのまま追尾する車。半分はミラーで後ろを確認するのでまぶしくて仕方がない。
先頭に立って制限速度以内で走る車(安全誘導しているのだろうパトカーもしかり)、
車の運転中に流れについて行けなくて、前車との車間距離を極端にあけて走る車、
かつ頻繁にブレーキを踏む車、
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そんな時に車の後部に電光掲示板でもあり、後続車と対話ができる、なんてことを夢想した。「ライトがアップですよ」とか「接近注意」とか「ありがとう」
現在の日本では急いでいるときにはまず車での移動となる。つまり急いでいる人はほぼ車を運転している、そこで交通マナーが必要となる。
現実的に制限速度を厳守して走行している車は多数ではない少数だ。
そこで自身ゆっくりと走りたいという運転手は絶えず後方への配慮を欠かさず、もし後続に急ぎの車があれば左へ寄り停車し、後続車を先に行かせる、これで煽られることもない。
念のため。よく後続車を先に行かせるために左へ寄るだけで停車しない車があるが、これはあまり意味がない。追い越し禁止の車道では、左へ避けても走行中の車を抜くことは「追い越し禁止違反」になります。必ず左へより、ブレーキを踏みストップランプを点灯させること。
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